気がするのである。しかしそんなことは心理劇でも何でもないナンセンス劇「ユーモレスク」には別に大した問題にするほどの問題ではないので、ともかくも夕刊売りのK嬢をして「あの男です、あの男です」と叫ばせ、満場を総立ちにさせ、陪審官一斉に靴磨きの「無罪」を宣言させ、そうして狂喜した被告が被告席から海老《えび》のようにはね出して、突然の法廷侵入者田代公吉と海老のようにダンスを踊らせさえすれば、それでこの「与太者ユーモレスク、四幕、十一景」の目的の全部が完全に遂げられる訳である。
 とにかくなかなか骨の折れた手のかかったメカニズムであるが所々に多少のがたつきがあったり大きな穴が見えたりするにしても、おしまいまで無事に連続して運転するのはなかなか巧妙なものである。
 エピローグとして最初と同じ銀座鋪道の夜景が現われる。ここで若い靴磨きが変な街路詩人の詩を口ずさみ三等席の頭上あたりの宵の明星を指さして夕刊娘の淡い恋心にささやかな漣《さざなみ》を立てる。バーからひびくレコード音楽は遠いパリの夜の巷《ちまた》を流れる西洋|新内《しんない》らしい。すべてが一九三三年向きである。
 この芝居を見ている間に、何遍か思わず笑い出してしまった。近所の人が笑うのに釣込まれたせいもあるがやはり可笑《おか》しくなって笑ったのである。何が可笑しいと聞かれると実は返答に困るような甚だ他愛のない、しかしそれだけに純粋|無垢《むく》の笑いを笑ったようである。近頃珍しい経験をしたわけである。やはり「試験」のあとの青空の影響もあったのかもしれない。それでせっかくこんなに子供のように笑ったあとで、それから後のプログラムの名優達の名演技を見て緊張し感嘆し疲労するのは、少なくも今日の弛緩《しかん》の半日の終曲には適しないと思ったので、すぐに劇場を出て通りかかった車に乗った。車はいつもとちがう道筋をとって走り出したのでどこをどの方角に走っているか少しも分からない。大都市の冬に特有な薄い夜霧のどん底に溢れ漲る五彩の照明の交錯の中をただ夢のような心持で走っていると、これが自分の現在住んでいる東京の中とは思えなくなって、どこかまるで知らぬ異郷の夜の街をただ一人こうして行方も知らず走っているような気がして来た。
 とある河の橋畔に出ると大きなビルディングが両岸に聳《そび》え立って、そのあるものには窓という窓に明るい光が映っている。車が方向をかえるたびに、そういう建物が真闇《まっくら》い空にぐるぐる廻転するように見えた。何十年も昔、世界のどこかの果のどこかの都市で、丁度こんな処をこんな晩に、こんな風にして走っていたような気がするのである。
 気が付いたら室町《むろまち》の三越の横を走っていたので、それではじめてあらゆる幻覚は一度に消えてしまって単調な日常生活の現実が甦《よみがえ》って来た。そうして越えて来た「試験」の峠のあとの青空と銀杏の黄葉との記憶が再び呼び返され、それからバスの中の女優の膝の菓子折、明治座の廊下の飾り物の石鹸、電話の「猫のオルガン」から、もう一度「与太者ユーモレスク、四幕十一景」を復習しながら、子供のように他愛のない笑いを車内の片隅の暗闇の中で笑っている自分を発見したのであった。
 緊張のあとに来る弛緩は許してもらってもいいであろう。そのおかげでわれわれは生きて行かれるのである。伸びるのは縮まるためであり、縮むのは伸びるためである。伸びるのが目的でもなく縮むのが本性でもなく、伸びたり縮んだりするのが生きている心臓や肺の役目である。これが伸び切り、縮み切りになるときがわれわれの最後の日である。
 弛緩の極限を表象するような大きな欠伸《あくび》をしたときに車が急に止まって前面の空中の黄色いシグナルがパッと赤色に変った。これも赤のあとには青が出、青のあとにはまた赤が出るのである。

 これを書き終った日の夕刊第一頁に「紛糾せる予算問題。急転! 円満に解決」と例の大きな活字の見出しが出ている。そうして、この重大閣議を終ってから床屋で散髪している○相のどこかいつもより明るい横顔と、自宅へ帰って落着いて茶をのんでいる特別にこやかな△相の顔とが並んで頼もし気に写し出されている。ここにも緊張の後に来る弛緩の長閑《のどか》さがあるようである。「試験」が重大で誠意が熱烈で従って緊張が強度であればあるほどに、それを無事に過ごしたあとの長閑さもまた一入《ひとしお》でわれわれの想像出来ないものがあるであろうと思いながら、夕刊第二頁をあけると、そこには、教育界の腐敗、校長の涜職《とくしょく》事件や東京市会と某会社をめぐる疑獄に関する記事とが満載されている。これらの記事がもし半分でも事実とすると、東京市の公共機関の内部には、ゆるみきりにゆるんでしまって、そうして生命を亡《うしな》って腐れてしまった部分
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