う尤《もっと》もらしいことにしたいためである。
 その自動車から毛皮にくるまって降りて来た背の低い狸《たぬき》のようなレデーのあとから降りて来たのがすなわちこの際必要欠くべからざる証人社長池田君で、これがその恐怖する妻君の前で最も恐るべき証人となり得る恐れのあるところの田代のために、その友人浅岡に有利なる証人として法廷に出頭することを約するの止むなきに到ったのが、やはりその恐怖のためであったのである。何物かの匂いを嗅いだ妻君は「陪審制度というものも一度見学の必要がある」という口実で自分もどうしても傍聴に出るのだと主張する。そうして大団円における池田君の運命の暗雲を地平線上にのぞかせるのである。そこへおあつらえ通り例の夕刊売りが通りかかって、それでもう大体の道具立ては出来たようなものである。これでこの芝居は打出してもすむ訳である。
 それではしかし見物の多数が承知しないから最後の法廷の場がどうしても必要である。あるいはむしろこの最後の場を見せるだけの目的で前の十景十場を見せて来た勘定にもなる。前の十場面は脚本で読ませておいて大切《おおぎ》り一場面だけ見せてもいいかもしれない、とも考えられるが、それでは登場人物が劇中人物に成り切るだけの時間が足りないであろう。役者が劇中人物に成り切るまでにはやはり相当な時間がかかるからである。
 最後の法廷で先ず最初に呼出された証人の警察医はこれは役者でなくて本物である。観客中の本職の素人《しろうと》が臨時に頼まれて出て来たのかと思うほど役者ばなれがして見えた。こういうのは成効であるか不成効であるか、それは自分等には分からない。
 この一座には立役者以外の端役《はやく》になかなか芸のうまい人が多いようである。この一座に限らず芝居の面白味の半分は端役の力であることは誰でも知っているらしいが、しかし誰も端役のファンになって騒ぐ人はないようである。騒がれることなしに名人になりたい人はこれらの端役の名優となるべきであろう。
 証人社長も真に迫るがこの人のはやはり役者の芸としての写実の巧みである。証人の上がる壇に蹴躓《けつまず》いたりするのも自然らしく見えた。これは勿論同じことを毎日繰返しているのである。開演期間二十余日の間毎晩一度ずつ躓かなければならないことを考えると俳優というものもなかなか容易ならぬ職業だと思われる。それはとにかくこの善良愛すべき社長殿は奸智《かんち》にたけた弁護士のペテンにかけられて登場し、そうして気の毒千万にも傍聴席の妻君の面前で、曝露《ばくろ》されぬ約束の秘事を曝露され、それを聞いてたけり立ち悶絶《もんぜつ》して場外にかつぎ出されるクサンチッペ英《はなぶさ》太郎君のあとを追うて「せっかく円満になりかけた家庭を滅茶滅茶にされた」とわめきながら退場するのは最も同情すべき役割であり、この喜劇での儲け役であろう。
 さていよいよ夕刊売りの娘に取っときの切り札、最後の解決の鍵を投げ出させる前に、もう一つだけ準備が必要である。それは真犯人の旧騎士吉田を今の新聞記者吉田に仕立ててそれをこの法廷の記者席の一隅に、しかも見物人にちょうどその目標となるべき左の顋《あご》下の大きな痣《あざ》を向けるように坐らせておく必要があるのである。
 夕刊売りが問題の夜更けに問題のアパート階上の洗面場で怪しい男の手を洗っているのを見たという証言のあたりから、記者席の真犯人に観客の注意が当然集注されるから、従ってその時に真犯人は真に真犯人であるらしい挙動をして観客に見せなければならないこと勿論である。それで、特に目につくような赤軸の鉛筆で記事のノートを取るような風をしながら、その鉛筆の不規則な顫動《せんどう》によって彼の代表している犯人の内心の動乱の表識たるべき手指のわななきを見せるというような細かい技巧が要求される。「その男になにか見覚えになる特徴はなかったか」と裁判長が夕刊売りに尋ねる。その瞬間に、よほどのぼんやりでない限りのすべての観客のおのおのの大きくみはった二つの眼が一斉にこの不幸な犯人の左の顋下の大きな痣に注がれるのはもとより予定の通りである。その際に、もしかこれが旧劇だと、例えば河内山宗俊《こうちやまそうしゅん》のごとく慌てて仰山《ぎょうさん》らしく高頬《たかほ》のほくろを平手で隠したりするような甚だ拙劣な、友達なら注意してやりたいと思うような挙動不審を犯すのであるが、ここはさすがに新劇であるだけに、そういう気の利かない失策はしない。しかし結局はとうとうその場に堪え切れなくなって逃げ出しを計る。これはしかしこういう場合における実際の犯人の心理を表現したものであるかどうか少し疑わしい。自分にはまだ経験はないから分かりかねるが、たとえ逃げ出すにしても逃げ出し方があれとはもう少しどうにか違うのではないかという
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