立たさせるためにわざわざ浅岡に水を汲みにやって廊下でこのおばさんに出逢わせておく必要のあることは勿論である。
浅岡田代が去ったあとへ悪漢旧情夫が登場するのであるが、しかし彼がいよいよダンサーを殺す残酷な現場は電気係が配電盤のスウィッチをひねって綺麗に消してしまう。殺す理由がどうもはっきりしないが、とにかく殺せばそれでよいのである。さて、この真犯人の姿と顔とを誰かにこの現場近くではっきり見届けさせておかないとあとで困る。しかしまた、この一番大切な証人は最後の瞬間までかくれて出頭しないようにしておかないと工合が悪い。そうしないと早く片がつき過ぎて困るのである。そのためにこの証人には何かしら少し後ろ暗い所業を、しかもこの事件に聯関してさせておかないと都合がよくない。それかと云ってあんまり悪い事ではまた困るのである。この難儀な迷惑な証人の役目を負わせるための適任者は、別に物色するまでもなく例の夕刊嬢において見出されるのである。一度拒絶した五円を貰わねばやはり父の薬が買えない。その五円をもった田代がこのアパートに来ているものと見当をつけて尋ねて来るところに多少の複雑な心理的な味を見せようというのである。さて来てみるとダンサーの室の前で変な男すなわち真犯人が取乱した風で手を洗っている。それが慌てて逃げ出す。ダンサーの室は叩いても音がしない。洗面台に犯人の遺《のこ》した腕時計が光っていて、それが折から金につまった小娘を誘惑する。ここはなかなかこの娘役者の骨の折れるところであろう。多分胸の動悸を象徴するためであろうか、機関車のような者を舞台裏で聞かせるがあれは少し変である。
容疑者の容疑をもう一段強めるために、もう一つのエピソードを導入したいので次のような仕かけを考えたものである。この挿話の主人公夫婦として現われる二人の俳優の演技が老巧なためにこれが相当な効果をあげているようである。
銀座を追われた靴磨き両人に腹を減らさせて浜町公園のベンチへ導く。そこに見物には分かっているが靴磨き二人には所有者不明の写真機がある。それをひねくり廻している矢先へ通りかかったのが保険会社社長で葬儀社長で動物愛護会長で頭が禿《は》げて口髯《くちひげ》が黒くて某文士に似ている池田庸平事大矢市次郎君である。それが団十郎の孫にあたるタイピストをつれて散歩しているところを不意に写真機を向けて撮る真似をされ
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