。車が方向をかえるたびに、そういう建物が真闇《まっくら》い空にぐるぐる廻転するように見えた。何十年も昔、世界のどこかの果のどこかの都市で、丁度こんな処をこんな晩に、こんな風にして走っていたような気がするのである。
気が付いたら室町《むろまち》の三越の横を走っていたので、それではじめてあらゆる幻覚は一度に消えてしまって単調な日常生活の現実が甦《よみがえ》って来た。そうして越えて来た「試験」の峠のあとの青空と銀杏の黄葉との記憶が再び呼び返され、それからバスの中の女優の膝の菓子折、明治座の廊下の飾り物の石鹸、電話の「猫のオルガン」から、もう一度「与太者ユーモレスク、四幕十一景」を復習しながら、子供のように他愛のない笑いを車内の片隅の暗闇の中で笑っている自分を発見したのであった。
緊張のあとに来る弛緩は許してもらってもいいであろう。そのおかげでわれわれは生きて行かれるのである。伸びるのは縮まるためであり、縮むのは伸びるためである。伸びるのが目的でもなく縮むのが本性でもなく、伸びたり縮んだりするのが生きている心臓や肺の役目である。これが伸び切り、縮み切りになるときがわれわれの最後の日である。
弛緩の極限を表象するような大きな欠伸《あくび》をしたときに車が急に止まって前面の空中の黄色いシグナルがパッと赤色に変った。これも赤のあとには青が出、青のあとにはまた赤が出るのである。
これを書き終った日の夕刊第一頁に「紛糾せる予算問題。急転! 円満に解決」と例の大きな活字の見出しが出ている。そうして、この重大閣議を終ってから床屋で散髪している○相のどこかいつもより明るい横顔と、自宅へ帰って落着いて茶をのんでいる特別にこやかな△相の顔とが並んで頼もし気に写し出されている。ここにも緊張の後に来る弛緩の長閑《のどか》さがあるようである。「試験」が重大で誠意が熱烈で従って緊張が強度であればあるほどに、それを無事に過ごしたあとの長閑さもまた一入《ひとしお》でわれわれの想像出来ないものがあるであろうと思いながら、夕刊第二頁をあけると、そこには、教育界の腐敗、校長の涜職《とくしょく》事件や東京市会と某会社をめぐる疑獄に関する記事とが満載されている。これらの記事がもし半分でも事実とすると、東京市の公共機関の内部には、ゆるみきりにゆるんでしまって、そうして生命を亡《うしな》って腐れてしまった部分
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