べき社長殿は奸智《かんち》にたけた弁護士のペテンにかけられて登場し、そうして気の毒千万にも傍聴席の妻君の面前で、曝露《ばくろ》されぬ約束の秘事を曝露され、それを聞いてたけり立ち悶絶《もんぜつ》して場外にかつぎ出されるクサンチッペ英《はなぶさ》太郎君のあとを追うて「せっかく円満になりかけた家庭を滅茶滅茶にされた」とわめきながら退場するのは最も同情すべき役割であり、この喜劇での儲け役であろう。
さていよいよ夕刊売りの娘に取っときの切り札、最後の解決の鍵を投げ出させる前に、もう一つだけ準備が必要である。それは真犯人の旧騎士吉田を今の新聞記者吉田に仕立ててそれをこの法廷の記者席の一隅に、しかも見物人にちょうどその目標となるべき左の顋《あご》下の大きな痣《あざ》を向けるように坐らせておく必要があるのである。
夕刊売りが問題の夜更けに問題のアパート階上の洗面場で怪しい男の手を洗っているのを見たという証言のあたりから、記者席の真犯人に観客の注意が当然集注されるから、従ってその時に真犯人は真に真犯人であるらしい挙動をして観客に見せなければならないこと勿論である。それで、特に目につくような赤軸の鉛筆で記事のノートを取るような風をしながら、その鉛筆の不規則な顫動《せんどう》によって彼の代表している犯人の内心の動乱の表識たるべき手指のわななきを見せるというような細かい技巧が要求される。「その男になにか見覚えになる特徴はなかったか」と裁判長が夕刊売りに尋ねる。その瞬間に、よほどのぼんやりでない限りのすべての観客のおのおのの大きくみはった二つの眼が一斉にこの不幸な犯人の左の顋下の大きな痣に注がれるのはもとより予定の通りである。その際に、もしかこれが旧劇だと、例えば河内山宗俊《こうちやまそうしゅん》のごとく慌てて仰山《ぎょうさん》らしく高頬《たかほ》のほくろを平手で隠したりするような甚だ拙劣な、友達なら注意してやりたいと思うような挙動不審を犯すのであるが、ここはさすがに新劇であるだけに、そういう気の利かない失策はしない。しかし結局はとうとうその場に堪え切れなくなって逃げ出しを計る。これはしかしこういう場合における実際の犯人の心理を表現したものであるかどうか少し疑わしい。自分にはまだ経験はないから分かりかねるが、たとえ逃げ出すにしても逃げ出し方があれとはもう少しどうにか違うのではないかという
前へ
次へ
全11ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング