奮した主観的な憤懣《ふんまん》を流出させるのであった。どういう方面からそういう材料を得ていたかまたその材料がどれだけ真に近いものであったかは自分には全然分らない。しかし故人がそういう方面の内幕話に興味を有ち、またそういう材料の供給者を有っていた事はたしかである。
 子規は世の中をうまく渡って行く芸術家や学者に対する反感を抱くと同時に、また自分に親しい芸術家や学者が世の中をうまく渡る事が出来なくて不遇に苦しんでいるのを歯痒《はがゆ》く思っていたかのように私には感ぜられる。

         三

 ある時西洋の小説の話から始まってゾラの『ナナ』の筋も私に話して聞かせた。それから、何という表題の書物であったか、若い僧侶が古い壁画か何かの裸体画を見て春の目覚めを感じるという場面を非常にリアルな表現をもって話して聞かせた事があった。その時の病子規は私には非常に若々しく水々しい人のように感ぜられた。
 私は『仰臥漫録』を繙《ひもと》いて、あの日々の食膳の献立を読む事に飽きざる興味を感じるものである。そうしてそれを読みながら、まだどういうわけか時々このゾラの小説の話を思い出すのである。
 ほとん
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