らしてみると、相当に深刻な描写があって人間の隠れた本能を呼びさますものがあるものと見える。
全十二巻の詞書というものを売っていたので買ってみると、詞書の上段に若干の画面の写真版が並んでいて、その中には上記のカットされたもののうちの二、三があるので大抵の想像が出来る。第一の頂点では常盤と侍女と二人が丸裸にされて泣き騒ぎ、その上に無残に刺殺され、侍女の死骸は縁側から下へころがされるといういきさつが数コマに亘って描かれてあるらしい。また第二の山では牛若丸が六人の賊をめちゃくちゃにたたき斬る、そうして二つ三つに切った死骸を蓆《むしろ》で包んで川へ流しに行くまでを精細な数コマに描き分けたものらしい。
こういうことから考えてみると、この絵巻物は、一方では勧善懲悪の教訓を含んでいると同時に、また一方ではおそらく昔の戦乱時代の武将などに共通であったろうと思われる嗜虐的なアブノーマル・サイコロジーに対する適当な刺戟として役立ったものであろうと想像される。殊に第一のクライマックスは最も極端なアブノーマル・エロチシズムの適例として見ることも出来はしないかと想像される。
こういうものが如何なる時代に如何なる人の需《もと》めによって如何なる人によって制作されたかということは、色々な問題に聯関して研究さるべき興味ある題目となるであろうと思われる。
それにつけて想い出されるのは、仏教や耶蘇教《やそきょう》の宗教画の中にも、この絵巻物の中に現われているような不思議な嗜虐性要素のしばしば現われることである。十字架の基督《キリスト》や矢を受けた聖セバスチアンもそうであるし、また地獄変相図やそれに似た耶蘇教の地獄図、聖アントニオの誘惑の絵の中にも同じようなものが往々見出される。こういう一致は偶然のことではなくて深い奥の方に隠れた人間の本性に根を引いていることだろうと思われるのである。
この間映画で見たが、インドの聖地では、自分の肉体を責めさいなむことを一生の唯一の仕事にしている人間が沢山いるようである。どうも不思議なことだと思われたが、よく考えてみるとこの謎が少し分りかけたような気もするのである。[#地から1字上げ](昭和九年七月『セルパン』)
底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店
1997(平成9)年7月7日発行
初出:「セルパン」
1934(昭和9)年7月1日
※初出時
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