分の昔の同窓の一人で現に生存しているある人の事についてほんのちょっとばかり話をした。その瞬間に自分の頭の中のどこかのすみを他の同窓のだれかれの影が通り過ぎてすぐ消えたのかもしれない、そうして中でもいちばん早くなくなったS君の記憶が多少特別なアクセントをもって印銘された、その余響のようなものがこの夢のS君出現の動機になったのだと仮定すると不思議でなくなる。
 Nの兄というのは全然見当がつかないし、その鼻隠しのヴェールに至ってはさらに奇中の奇である。帝大総長の引き合いに出るのもどうも解釈がつかない。これはフロイドかそのお弟子《でし》に頼むほかないと思われる。とにかくそういう人たちの参考になるかもしれないと思ったのでできるだけ忠実にこのひと朝の夢の現象を記録したつもりである。

     二 とんぼ

 八月初旬のある日の夕方|信州《しんしゅう》星野温泉《ほしのおんせん》のうしろの丘に散点する別荘地を散歩していた。とんぼが一匹飛んで来て自分の帽子の上に止まったのを同伴の子供が注意した。こういう事はこの土地では毎日のように経験することである。
 ステッキの先端を空中に向けて直立させているとそれ
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