形ばかりの庭ではあるが、ちょっとした植込みに石燈籠や手水鉢《ちょうずばち》などが置いてあった。そして手水鉢にはいつでも清水がいっぱいに溢れていた。
 ボーイはただ一人で間に合っていた。それは三十を少し越したくらいの男であった。いつでもちゃんとした礼装をして、頭髪を綺麗に分けて、顔を剃り立てて、どこの国の一流のレストランのボーイにもひけを取らないだけの身嗜《みだしな》みをしていた。
 何もこの男に限らない事ではあるが、私はすべてのレストランのボーイというボーイの顔のどこかに潜んでいるある特別な表情を発見する事が出来ると思う。それは何と形容してよいか分らない。例えば従順と倨傲《きょごう》と、あるいは礼譲とブルタリティと、二つの全く相反するものが互いに密に混合して、渾然《こんぜん》としたものに出来上がったとでも云ったらよいか。これが邪魔になって、私はどうしてもこの階級の人達に対して親しみを感じる訳に行かない。
 それでも永い間の顔馴染《かおなじみ》になってみれば、やはりそれだけの心安さは出来た。外に客の居ない時などには、適《たま》には世間話の一つもする事はあった。
 あの大地震に次いで起った火災は、この洋食店の辺も残らず灰にしてしまった。一、二月もたって近辺にぽつぽつバラックが建ち並ぶようになった頃に、思い出して行ってみたが、その店はまだ焼跡のままであった。料理場の跡らしい煉瓦《れんが》の竈《かまど》の崩れたのもそのままになっていた。この辺は地震の害もかなりひどくて人死にも相応にあったというから、ここの家の人々にもどういう怪我がなかったとも限らないと思った。そして、あのボーイが無事であったかどうか聞いてみたいような気がした。
 それから三月ほど後に、再びここを通ってみたら、いつの間にか、バラックが出来上がって、開業していた。這入《はい》ってみると、すべてが昔とはまるでちがった感じを与えた。よく拭き込んだ板敷の床は凸凹だらけの土間に変り、鏡の前に洋酒の並んだラック塗りの飾り棚の代りには縁台のようなものが並んで、そこには正札のついた果物《くだもの》の箱や籠や缶詰の類が雑然と並んでいた。昔は大きな火鉢に炭火を温かに焚《た》いていたのが、今は煤《すす》けた筒形の妙なストーブのようなものが一つ室の真中に突立っていた。石を張った食卓は冷たくて、卓布も掛けず、もとより花も活《い》けてなかった。
 ボーイは居なかった。その代りに若い女ボーイが一人居た。大柄な肥った女で、近頃はやる何とかいう不思議な髪を結《ゆ》って、白いエプロンを掛けていた。
 前のボーイはどうしたのだろう、聞いてみたいと思いながらもとうとう何も聞かずにそこを出た。
 何だか少し物足りないような心持になって、そこらのバラックの街を歩いた。自分の頭の中にある狭い世の中の一角が、それは小さな一角ではあるが、永久に焼払われたような気がした。何故だろう。
 今まであの店の部屋の古風な装飾なり、また燕尾服《えんびふく》を着たボーイなりが、すべて前の世紀の残りものであったのが、火事で焼けたこの機会に、一足飛びに現代式に変ってしまったのだというような気がした。そして、事によると、あのボーイはその前世紀から焼け出されて、しかも今の世紀に落ち付く家がなくて、困っているのではないかというような想像もした。
 それからしばらくしてまた行ってみると、私の頭にはもうここに居なくなったはずの昔のボーイがちゃんと出て控えていた。聞いてみると病気で休んでいたというのである。私はいつもながらの自分の任意な空想に欺されたのだと思って可笑《おか》しくもあった。しかしそれにしてもこのボーイの外貌《がいぼう》について、一つ著しい変化の起っているのを見逃す事は出来なかった。それは、地震前には漆《うるし》のように黒かった髪の毛が、急に胡麻塩《ごましお》になって、しかもその白髪であるべき部分は薄汚い茶褐色を帯びている事であった。そして、思いなしか、眼の光にも曇りが出来て、何となしに憔悴《しょうすい》した表情がこの人の全外容に表われているのであった。
 私は別に何事も深く尋ねてもみなかった。ただ地震当時の模様など聞いたばかりで帰って来た。
 その後また行ってみると、今度はまた男ボーイは居ないで前の女がただ一人で給仕をつとめていた。あの男はまた病気でもしているのかと思って聞いてみると、先日からもう暇を取って、ここには居ないというのである。どうしてかと聞いてみると、よくは分らないが、何か間違いでも仕出かして、一度出されかかったのを、定客か誰かの仲裁で、再び元通りになっていた。しかしやはり工合が悪くて、結局自分でよしてしまったのであるらしい。
 この事件の内容については、それきりで何事も自分には分らない。しかし、それは、もしあの大震災さえなければ起らなかったような事件ではなかったろうかという気がした。少なくも震災が事件の「引金」を引いたのではないかという、漠然とした想像をした。そして、この事はともかくも、今度の震災が動機となって起ったであろうと思われる、ありとあらゆる事件や葛藤、それらの犠牲となったさまざまな人達の事を、空想の馳《は》せる限りに思いめぐらしてみた。
[#地から1字上げ](大正十三年四月『中央公論』)



底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
   1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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