は小さなようでも電車切符の穴調べも遣り方によっては市民の頭の中に或るものをつぎ込み、その中から或るものを取り去るような効果がないとは限らない。
 例えばわれわれが毎日電車に乗る度に、私が日比谷で見たような場面を見せられるとしたらどうだろう。おそらくわれわれの「感情美」に対する感覚は日に日に麻痺《まひ》して行きそうである。
 百千年の後に軽率な史家が春秋《しゅんじゅう》の筆法を真似て、東京市民をニヒリストの思想に導いた責任者の一つとして電気局を数えるような事が全くないとは限らないような気もする。
 十幾年前にフィンランドの都ヘルジングフォルスへ遊びに行った時に私を案内して歩いたあちらの人が、財布から白銅貨のような形をした切符を出して、車掌というものの居ない車掌台の箱に投げ込むのを見た。つまらない事だが、私が今でもこの国この都を想い出す時に起る何となく美しい快い感じには、この些細《ささい》な事もいくらかを寄与しているように思う。
 諸国を旅してみてもいったん売った電車切符をまた取り戻すような国は稀であった。それで私は国々で乗った電車切符を記念に集めて持ち帰る事が出来た。この妙な機会に私はこ 
前へ 
次へ 
全36ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング