るのが気になるので、それだけは訂正しておいた。
 ボーアの理論の始めて発表されたのは一九一三年であったから、もうちょうど一と昔前の事である。その説はすぐに我邦《わがくに》の専門家の間にも伝えられ、考究され、紹介され、応用もされていた。今日物理学に興味をもつ人でボーアの名前とその仕事の一般を知らない人はおそらく一人もないはずである。
 ところがこれほど専門家の目には顕著な人物の名前が「世間」というものの人名簿には今日という今日までどこにもかいてなかった。それがノーベル賞の光環を頂いて突然天から降って来た天使のように今「世間」の面前に立っている。十年前に出現した新星の光が今ようやく地球に届いたようなものである。
 それほどに科学者の世界は世間を離れている。しかしそのおかげで学者は心静かに落着いて各自の研究に没頭していられるのかもしれない。
 近頃かの地でボーアに会って帰って来た友人の話によると、このまだ若い学者は、どこか近い田舎に小さな別荘のようなものを有《も》っていて、暇のあるごとにそこへ行く、そうして平和な周囲と新鮮な空気の中に想を練りペンを使う、どうかすると芝生の上に寝転がって他所目 
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