日比谷止まりの電車が帝劇の前で止まった。前の方の線路を見るとそこから日比谷まで十数台も続いて停車している。乗客はゾロゾロ下り始めたが、私はゆっくり腰をかけていた。すると私の眼の前で車掌が乗客の一人と何かしら押問答を始めた。切符の鋏穴《はさみあな》がちがっているというのである。
 この乗客は三十前後の色の白い立派な男である。パナマらしい帽子にアルパカの上衣を着て細身のステッキをさげている。小さな声で穏やかに何か云っていたが、結局別に新しい切符を出して車掌に渡そうとした。
 二人の車掌が詰め寄るような勢いを示して声高《こわだか》にものを云っていた。「誤魔化《ごまか》そうと思ったんですか、そうじゃないですか。サア、どっちですか、ハッキリ云って下さい。」
 若い男は存外顔色も変えないで、静かに伏目がちに何か云いながら、新しい切符を差し出していた。車掌はそれを受取ろうともしないで
「サア、どっちです。……車掌は馬鹿じゃありませんよ」と罵《ののし》った。
 私は何だか不愉快であったからすぐに立って車を下りた。
 あの若い立派な男がわずかに一枚の切符のために自分の魂を売ろうとは私には思いにくかった。しかしそれはどうだか分らない事である。
 それにしても私はこの場面における車掌の態度をはなはだしく不愉快に感じた。たとえ相手の乗客が不正行為をあえてしたという証拠らしいものがよほどまでに具備していたにしても、人の弱点を捕えて勝ち誇ったような驕慢《きょうまん》な獰悪《どうあく》な態度は醜い厭な感じしか傍観している私には与えなかった。ましてそれが万一不正でなくて何かの誤謬《ごびゅう》か過失から起った事であったら果してどうであろう。もしも時代と場所がちがっていて、人が自分の生命に賭けても Honour を守るような場合であったらこれはただではすみそうもない。
 こんな事を考えて暑い日の暑苦しい心持をさらに増したのであった。
 それから四、五日経っての事である。私はZ町まで用があって日盛りの時刻に出掛けて行った。H町で乗った電車はほとんどがら明きのように空《す》いていた。五十銭札を出して往復を二枚買った。そしてパンチを入れた分を割《さ》き取って左手の指先でつまんだままで乗って行った。乗って行くうちに、その朝やりかけていた仕事のつづきを考えはじめて、頭の中はやがてそれでいっぱいになった。そ
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