の律動的変化を感じる事が出来る。
柿色の顔と萌黄色《もえぎいろ》の衣装の配合も特殊な感じを与える。頭に冠った鳥冠《とりかぶと》の額に、前立《まえだて》のように着けた鳥の頭部のようなものも不思議な感じを高めた。私はこの面の顔の表情に、どこか西洋画で見るパンの神のそれに共通なものがあるような気がしてならなかった。
三番目は「蘇莫者《そまくしゃ》」というのである。何と読むのか、プログラムに仮名付けがないから分らない。説明書によるとこの曲はもと天竺《てんじく》の楽で、舞は本朝で作ったとのことである。蘇莫者の事は六波羅密経《ろくはらみっきょう》に詳しく書いてある。聖徳太子が四十三歳の時に信貴山《しぎさん》で洞簫《どうしょう》を吹いていたら、山神が感に堪えなくなって出現して舞うた、その姿によってこの舞を作って伶人《れいじん》に舞わしめたとある。
始めに、たぶん聖徳太子を代表しているらしい衣冠の人が出て来て、舞台の横に立って笛を吹く。しばらくすると山神が出て来て舞い始める。おどろな灰褐色の髪の下に真黒な小粒な顔がのぞいている。色があまりに黒いのと距離が遠いのとで、顔の表情などは遺憾ながら分らない。片手に何か短い棒のようなものを固く握っているが、これも何であるか分らなかった。しかし私にはそれはどうでもよい。面白いのはその運動である。頭の上で近付けた両手を急速に左右に離して空中に円を描くような運動、何かものを跨《また》ぎ越えるような運動、何ものかに狙い寄るような運動、そういうような不思議な運動が幾遍となく繰り返された。
前の二種の舞がいかにもゆるやかな、のんびりとしたものであったのに反して、この蘇莫者にはどこかもう少し迫った感情のようなものが出ている。それは畢竟《ひっきょう》運動の速度、従ってエネルギーの差から起るものかもしれないが、そればかりでなく、この舞人の挙動自身に何かしらある感情の逼迫《ひっぱく》を暗示するものがあるのかもしれない。それがどういう感情であるかと問われると私にも分らないが、しかし例えばある神性と同時にある狂暴性を具えた半神半獣的のビーイングの歓喜の表現だと思って見ると、そう思えない事はない。
私は遠い神代のわが大八洲《おおやしま》の国々の山や森が、こういう神秘的なビーイングによって棲《す》まわれていたと想像してみた。そうして自分がそれらのビーイングの正
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