雑感
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)齎《もたら》し得る
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和三年十一月『理科教育』)
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子供の時代から現在までに自分等の受けた科学教育というものの全体を引くるめて追想してみた時に、そのうちの如何なるものが現在の自分等の中に最も多く生き残って最も強く活きて働いているかと考えてみると、それは教科書や講義のノートの内容そのものよりも、むしろそれを教わった先生方から鼓吹された「科学魂」といったようなものであるかと思われる。
ある先生達からは自然の探究に対する情熱を吹き込まれた。ある先生方からは研究に対する根気と忍耐と誠実とを授けられた。熱と根気さえあれば白痴でない限り誰でもいくらかの貢献を科学の世界に齎《もたら》し得るものであるという確信を、先生や先輩に授けられたことが一番尊い賜物であるように思われる。
科学の知識はそれを求める熱さえあれば必ずしも講義は聞かなくても書物からも得られる。頭が良くなくても根気さえあれば人が一日に一時間ずつ費やして会得《えとく》しまた仕遂げる事を、二時間三時間ずつかければ会得し遂行されよう。
科学教育の根本は知識を授けるよりもむしろそういう科学魂の鼓吹にあると思われる。しかしこれを鼓吹するには何よりも教育者自身が科学者である事が必要である。先生自身が自然探究に対する熱愛をもっていれば、それは自然に生徒に伝染しないはずはない。実例の力はあらゆる言詞より強いからである。
すべての小学校、中学校の先生が皆立派な科学者でなければならないという事を望むのは無理である。実行不可能である。しかしそんな必要は少しもない。ただ先生自身が本当に自然研究に対する熱があって、そうして誤魔化さない正直な態度で、生徒と共に根気よく自然と取込み合うという気があれば十分である。先生の知識は必ずしもそれほど広い必要はない。いわゆる頭の良い必要はない。
雑誌などで時々小学校の理科の教案と称するものを見ることがある。中によく綿密に考えたものだと思うて感心する。しかしまた一方で何となく不自然で人工的なものだという感じもする。これでは児童の頭が窮屈な型に押し詰められて、自由な働きが妨げられはしないかという気がする。こういう教案の作成に費やす時間
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