ぐ下にソビエト領事館がある。これも面白い事実である。門の鉄扉《てっぴ》の外側に子守が二、三人立って門内の露人の幼児と何か言葉のやりとりをしていると、玄関から逞《たくま》しいロシア婦人が出て来て、逞しいむき出しの腕でその幼児を軽々と引っかかえて引込んで行った。ソビエトの幼児が函館の町っ児の感化に染まることを恐れるのであろう。少し下りた処の洗濯屋の看板を見ると何某プラチェシナヤと露文字で書いてある。領事館御用の洗濯屋さんだからかと思ったが、電車通りを歩いていると、露文字の看板は外にも二つ見付かった。昔長崎を見物した時に見た露文の看板の記憶が甦って来るのを感じた。
とある町角で妙な現象を見た。それは質屋で質流れの衣類の競売をしている光景らしく判断された。みんな慾の深そうな顔をした婆さんや爺さんが血眼《ちまなこ》になって古着の山から目ぼしいのを握《つか》み出しては蚤取眼《のみとりまなこ》で検査している。気に入ったのはまるでしがみついたように小脇に抱いて誰かに掠奪されるのを恐れているようである。これも地獄変相絵巻の一場面である。それと没交渉に秋晴の太陽はほがらかに店先の街路に照り付けていた。この年になって、こんな処へ来て、こんな光景を初めて目撃しようとは夢にも想わないことであった。旅はすべきものである。
五稜郭《ごりょうかく》行というバスを見かけて乗る。何某講と染め抜いた揃いの手拭を冠った、盛装に草鞋《わらじ》ばきという珍しい出で立ちの婦人の賑やかに陽気な一群と同乗した。公園の入口にはダリアが美しく咲いて森閑とした園内を園丁が掃除していた。子供の時分によく熱病をわずらって、その度に函館産の氷で頭を冷やしたことであったが、あの時のあの氷が、ここのこの泥水の壕《ほり》の中から切り出されて、そうして何百里の海を越えて遠く南海の浜まで送られたものであったのかと思うと、この方が中学校の歴史で教わった五稜郭の戦いに関する感慨よりも更に深くエゴイストの心に触れるものがある。これは我が幼き日における深く限りなき父母の慈愛の想い出につながるからである。帰路のバスを待っていると葬礼の行列が通る。男は編笠を冠り白木綿の羽織のようなものを着ている。女は白|頭巾《ずきん》に白の上《うわ》っ被《ぱ》りという姿である。遺骨の箱は小さな輿《こし》にのせて二人でさげて行くのである。近頃の東京の葬礼自動車ほ
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