に立派な愉快な火山である。四辺の温和な山川の中に神代の巨人のごとく伝説の英雄のごとく立ちはだかっている。富士が女性ならばこれは男性である。苦味もあれば渋味もある。誠に天晴《あっぱれ》な大和男児の姿である。この美しい姿を眺めながら妙な夢のような事を考えてみるのであった。
 誰かも云ったように、砂漠と苦海の外には何もない荒涼|落莫《らくばく》たるユダヤの地から必然的に一神教が生れた。しかし山川の美に富む西欧諸国に入り込んだ基督《キリスト》教は、表面は一神でありながら内実はいつの間にか多神教に変化した。同時にユダヤ人の後裔《こうえい》にとっての一つの神なるエホバは自ずから姿を変えて、やがてドルになりマルクになった。その後裔の一人であったマルクスには、「経済」という唯一の見地よりしか人間の世界を展望することが出来なかった。それで彼の一神教的哲学は茫漠たるロシアの単調の原野の民には誠に恰好なものであり、満洲や支那の平野に極めてふさわしいものでなければならない。彼等の国には火山などは一つもないのである。これに反してエトナ、ヴェスヴィオ、ストロンボリ以下多数の火山を有する南欧イタリアの国土には当然にふさわしいシーザーが現われファシズムが生れた。今眼前にこの岩手山の実に立派な姿を眺め、その麓《ふもと》に展開する山川の実に美しい多様な変化を味わっていると、どうしても日本はやはり八百万《やおよろず》の神々の棲処《すみか》であり、英雄の国であり、哲人の国であり、食うことと飲むことの外にまだ色々様々大事なことのある国だとしか思われないのである。こんな理窟にも何にもならない理窟を考えながら、岩手山の山霊に惜しい別れを告げたのであった。
 林檎畑《りんごばたけ》の案山子《かかし》は、樹の頂上からぴょこんと空中へ今正に飛び出した所だと云ったような剽軽《ひょうきん》な恰好をしている。農婦の派手な色の頬冠りをした恰好がポーランドあたりで見かけたスラヴ女の更紗《さらさ》の頬冠《ほおかぶ》りを想い出させる。それからまた、どこの国でも婆さんは同じような婆さんである。婆さんはユニヴァーサルに国境を超越した存在だと思う。婆さんに人種はないのである。
 北へ行くほど人間の少なくなるのを感じる。たまたま停まる停車場に下りる人もなければ乗る人もない。低い綿雲が垂れ下がって乙供《おつとも》からは小雨が淋しくふり出した
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