車
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勿論《もちろん》その頃はまだ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少々|宜《よろ》しからぬ事があって
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](明治三十三年九月『ホトトギス』)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ニョキ/\
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私が九つの秋であった、父上が役を御やめになって家族一同郷里の田舎へ引移る事になった。勿論《もちろん》その頃はまだ東海道鉄道は全通しておらず、どうしても横浜から神戸まで船に乗らねばならぬ。が、困った事には父上の外は揃いも揃うた船嫌いで海を見るともう頭痛がすると云う塩梅《あんばい》で。何も急《せ》く旅でもなしいっそ人力《じんりき》で五十三次も面白かろうと、トウトウそれと極《きま》ってからかれこれ一月の果《はて》を車の上、両親の膝の上にかわるがわる載せられて面白いやら可笑《おか》しいやらの旅をした事がある。惜しい事には歳が歳であったから見もし聞きもした場所も事実も、二昔も程遠き今日からふりかえって考えてみると夢のような取り止めも付かぬ切々《きれぎれ》が、かすかな記憶の糸につながれて、廻り燈籠のように出て来るばかりで。こんな風であるから、これも自分には覚えておらぬが横浜から雇った車夫の中に饅頭形の檜笠《ひのきがさ》を冠《かぶ》ったのがあったそうだ。仕合せに晴天が続いて毎日よく照りつける秋の日のまだなかなか暑かったであろう。斜めに来る光がこの饅頭笠をかぶった車夫の影法師を乾き切った地面の白い上へうつして、それが左右へゆれながら飛んで行くのが訳もなく子供心に面白かったと見える。自分はこの車夫に椎茸《しいたけ》と云う名をつけた。それは影法師の形がいくらか似ていると思ったからである。街道に沿うた松並木の影の中をこの椎茸がニョキ/\と飛んで行くのがドンナに可笑しかったろう。朝はこの椎茸が恐ろしく長くて、露にしめった道傍の草の上を大蛇のようにうねって行く。どうかするとこの影が小川へ飛込んで見えなくなったと思うと、不意に向うの岸の野菊の中から頭を出す。出すかと思うと一飛びに土堤《どて》を飛越えてまた芒《すすき》の上をチラリ/\して行く。なお面白いのは日が高くなるにつれて椎茸が次第に縮ん
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