ぜ、こんなのとはちがわあ」「あれでも何處かへ持つて行きあ、三十圓や五十圓にやあなるんだよ」などといふのも聞こえた。
 さつきの子供はいつ迄も其處いらを離れずにぶら/\して居た。遠足にしては唯一人といふのも可笑しかつた。餘程繪が好きなので、かうして油繪の出來て行く道筋を飽きずにおしまひまで見屆けようとして居るのかと思つても見た。
 一度去つた荷車と人夫は再び歸つて來た。彼等の仕事しながらの會話によつて對岸の廢工場が某の鑄物工場であつた事、それが漸く竣成していよ/\製造を始めようとする途端に經濟界の大變動が突發して其儘廢墟になつてしまつた事などを知つた。
 繪具箱を片付ける頃には夕日が傾いて廢墟の汀の花薄は黄金の色に染められた。其處に堆積した土塊のやうなものはよく見るとみな石炭であつた。溜池の岸には子供が二三人釣を垂れて居た。熔爐の屋根には一羽の鴉が首を傾けて何かしら考へて居た。
 繪として見る時には美しく面白い此の廢墟の影に、多數の人の家の悲慘な運命が隱れて居るのを、此の瞬間迄私は少しも考へないで居た。一度氣が付くともう眼の前の繪は消えて其處にはさま/″\な悲劇の場面が現はれた。
 利慾の外に何物もない人達が戰時の風雲に乘じて色々な際どい仕事に手を出し、それが殆んど豫期された筈の變動の爲に倒れたのはどうにも仕方が[#「仕方が」は底本では「仕方か」]ないとしても、さういふ人の妻子の身の上は考へて見れば氣の毒である。
 突然すぐ前の溝の中から呼びかけるものがある。見ると河の方から一艘の荷船が何時の間にかはひつて來て居る。市中の堀などでよく見かけるやうな、船を家として渡つて行く家族の一つである。舳に立つて居る五十近い男が今呼びかけたのは私ではなくて、さつきから私の繪を見て居た中學生であつた。
 子供に關する凡ての事が稻妻の閃めくやうに私の頭の中に照し出された。今日は土曜である。市の中學から恐らく一週間ぶりに歸つた子供は此一夜を父母と同じ苫《とま》の下で明かさうとするのであらう。其れを迎に來た親と、待ち草臥《くたび》れた子供とが、船と岸とで默つて向合つて居る淋しい姿を見比べた時に、何だか急に胸の邊がくすぐつたくなつて知らぬ間に涙が出て居た。何の爲の涙であつたか自分でも分らない。
 繪の世界は此上もなく美しい。暫く此の美しい世界に逃れて病を養はうと思つても、繪の底に隱れた世の中
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