うかといふ氣がして不愉快であつた。
高壓電線の支柱の處迄來ると、河から直角に掘り込んで來た小さな溝渠があつた。此れに沿うて二條のトロの鐵軌が敷いてあつて、二三町距てた電車通の神社の脇に通じて居る。溝渠の向側には小規模の鐵工場らしいものゝ廢墟がある。永い間雨曝しになつて居るらしい鐵の構造物はすつかり赤錆がして、それが青いトタン屋根と美しい配合を示して居る。煙突なども倒れかゝつたまゝになつて何となく荒れ果てた眺である。此の工場の爲に掘つたかと思はれる裏の溜池には掘割溝から河の水を導き入れてあつた。其の水門が崩れた儘になつて居るのも畫趣があつた。池の對岸の石垣の上には竹藪があつて、其の中から一本の大榎が聳えて居るが、其の梢の紅や黄を帶びた色彩が何とも云はれない美しい。樹の影には他の工場の倉庫らしい丹塗りの單純な建物が半面を日に照らされて輝いて居る。其の前には廢工場の汀に茂つた花薄が銀のやうに光つて居る。
溝の此方に畫架を据ゑて對岸の榎と赤い倉庫と薄との三角形を主題にして描き始めた。
描いて居るすぐ傍には新しい木の香のする材木が積んであつた。又少し離れた處には大きな土管がいくつも砂利の上にころがしてあつた。私が其處へ來る前から、中學の一年か二年位と見える子供が唯一人材木の上に腰をかけて居たが、私が描き始めると傍へ來て大人しく見て居た。そして何時迄も其處を離れないで見て居るのであつた。
其内に土方のやうなものが二三人すぐ背後の方へ來て材木の上に腰かけて何かしきりに話し合つて居た。誰か其處に來る筈の人――それは多分親分か何かゞ未だ來て居ないのを待遠しがつて噂をして居るらしかつた。傍に「繪を描いて居る男」などは全で問題にならないらしい程熱心に話合つて居た。
其内に荷馬車の音がして大勢の人夫がやつて來て、材木を轉がしては車に積み始めたので、私はしばらく畫架を片よせて避けなければならなかつた。そこで少し離れた土管に腰をかけて煙草を吸ひながら描きかけの繪の穴を埋める事を考へて居た。
人夫の中には繪を覗きに來るものもあつた。そして色々人を笑はせる心算らしい粗暴な或は卑猥な言語を並べたりした。「あの曲つた煙突をかくといゝんだがなあ」などゝいふ者もあつた。「文展へ行つて見ろ、島[#「島」に傍点]村觀山とか寺岡[#「岡」に傍点]廣業とか、あゝいふのはみんな大家[#「大家」に傍点]だ
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