黄を帯びた色彩がなんとも言われなく美しい。木の影には他の工場の倉庫らしい丹塗《にぬ》りの単純な建物が半面を日に照らされて輝いている。その前には廃工場のみぎわに茂った花すすきが銀のように光っている。
 溝のこっちに画架をすえて対岸の榎と赤い倉庫とすすきとの三角形を主題にしてかき始めた。
 かいているすぐそばには新しい木の香のする材木が積んであった。また少し離れた所には大きな土管がいくつも砂利《じゃり》の上にころがしてあった。私がそこへ来る前から、中学の一年か二年ぐらいと見える子供がただ一人材木の上に腰をかけていたが、私がかき始めるとそばへ来ておとなしく見ていた。そしていつまでもそこを離れないで見ているのであった。
 そのうちに土方のようなものが二三人すぐ背後のほうへ来て材木の上に腰かけて何かしきりに話し合っていた。だれかそこに来るはずの人――それはたぶん親方か何かがまだ来ていないのを待ち遠しがってうわさをしているらしかった。そばに「絵をかいている男」などはまるで問題にならないらしいほど熱心に話し合っていた。
 そのうちに荷馬車の音がしておおぜいの人夫がやって来て、材木をころがしては車に積み始めたので、私はしばらく画架を片よせて避けなければならなかった。そこで少し離れた土管に腰をかけて煙草《たばこ》を吸いながらかきかけの絵の穴を埋める事を考えていた。
 人夫の中には絵をのぞきに来るものもあった。そしていろいろ人を笑わせるつもりらしい粗暴なあるいは卑猥《ひわい》な言語を並べたりした。「あの曲がった煙突をかくといいんだがなあ」などという者もあった。「文展へ行って見ろ、島[#「島」に傍点]村観山とか寺岡[#「岡」に傍点]広業とか、ああいうのはみんな大家[#「大家」に傍点]だぜ、こんなのとはちがわあ」「あれでもどっかへ持って行きゃあ、三十円や五十円にゃあなるんだよ」などいうのも聞こえた。
 さっきの子供はいつまでもそこいらを離れずにぶらぶらしていた。遠足にしてはただ一人というのもおかしかった。よほど絵が好きなので、こうして油絵のできて行く道筋を飽きずにおしまいまで見届けようとしているのかと思ってもみた。
 一度去った荷車と人夫は再び帰って来た。彼らの仕事しながらの会話によって対岸の廃工場が某の鋳物工場であった事、それがようやく竣成《しゅんせい》していよいよ製造を始めようとするとたんに経済界の大変動が突発してそのまま廃墟《はいきょ》になってしまった事などを知った。
 絵の具箱を片付けるころには夕日が傾いて廃墟のみぎわの花すすきは黄金の色に染められた。そこに堆積《たいせき》した土塊のようなものはよく見るとみな石炭であった。ため池の岸には子供が二三人|釣《つ》りをたれていた。熔炉《ようろ》の屋根には一羽のからすが首を傾けて何かしら考えていた。
 絵として見る時には美しくおもしろいこの廃墟の影に、多数の人の家の悲惨な運命が隠れているのを、この瞬間まで私は少しも考えないでいた。一度気がつくともう目の前の絵は消えてそこにはさまざまな悲劇の場面が現われた。
 利欲のほかに何物もない人たちが戦時の風雲に乗じていろいろなきわどい仕事に手を出し、それがほとんど予期されたはずの変動のために倒れたのはどうにもしかたがないとしても、そういう人の妻子の身の上は考えてみれば気の毒である。
 突然すぐ前の溝《みぞ》の中から呼びかけるものがある。見ると川のほうから一|艘《そう》の荷船がいつのまにかはいって来ている。市中の堀《ほり》などでよく見かけるような、船を家として渡って行く家族の一つである。舳《へさき》に立っている五十近い男が今呼びかけたのは私ではなくて、さっきから私の絵を見ていた中学生であった。
 子供に関するすべての事が稲妻のひらめくように私の頭の中に照らし出された。きょうは土曜である。市の中学からおそらく一週間ぶりに帰った子供はこの一夜を父母と同じ苫《とま》の下で明かそうとするのであろう。それを迎えに来た親と、待ちくたびれた子供とが、船と岸とで黙って向かい合っているさびしい姿を見比べた時に、なんだか急に胸のへんがくすぐったくなって知らぬまに涙が出ていた。なんのための涙であったか自分でもわからない。
 絵の世界はこの上もなく美しい。しばらくこの美しい世界にのがれて病を養おうと思っても、絵の底に隠れた世の中が少しの心のすきまをうかがってすぐに目の前に迫ってくる。これは私の絵が弱いのか世の中が強いのか、どっちだかこれもよくわからない。
 一つの工場が倒れる一方に他の工場は新たに建てられている。さっきの材木もやはりどこかの工場のである事が人夫の話から判断された。工業が衰えたわけでもないらしい。個体が死んでも種《スペシース》が栄えれば国家は安泰である。個体の死に付随する感傷的な哀詩などは考えないほうが健全でいいかもしれない。
 工場のみならず至るところに安普請の家が建ちかかっているのがこのあいだじゅう目についていた。ひところ騒がしかった住宅難の解決がこんなふうにしてなしくずし[#「なしくずし」に傍点]についているかと思われた。まだ荒壁が塗りかけになって建て具も張ってない家に無理無体に家財を持ち込んで、座敷のまん中に築いた夜具や箪笥《たんす》の胸壁の中で飯を食っている若夫婦が目についたりした。
 新開地を追うて来て新たに店を構えた仕出し屋の主人が店先に頬杖《ほおづえ》を突いて行儀悪く寝ころんでいる目の前へ、膳椀《ぜんわん》の類を出し並べて売りつけようとしている行商人もあった。そこらの森陰のきたない藁屋《わらや》の障子の奥からは端唄《はうた》の三味線をさらっている音も聞こえた。こうしてわが大東京はだらしなく無設計に横に広がって、美しい武蔵野《むさしの》をどこまでもと蚕食して行くのである。こんなにしなくても市中の地の底へ何層楼のアパートメントでも建てたほうがよさそうに思われる。そうしないと、おしまいには米や大根を地下室の棚《たな》で作らなければならない事になるかもしれない。
 ベルリンの郊外でまだ家のちっとも建たない原野に、道路だけが立派にみがいたアスファルト張りにできあがって、美術的なランプ柱が行列しているのを、少しばかばかしいようにも感じたのであったが、やっぱりああしなければこうなるのは当たりまえだと思われた。
 思うに「場末の新開町」という言葉は今の東京市のほとんど全部に当てはまる言葉である。

 十一月二日、水曜。渋谷《しぶや》から玉川電車《たまがわでんしゃ》に乗った。東京の市街がどこまでもどこまでも続いているのにいつもながら驚かされた。
 世田《せた》が谷《や》という所がどこかしら東京付近にあるという事だけ知って、それがどの方面だかはきょうまでつい知らずにいたが、今ここを通って始めて知った。なるほど兵隊のいそうなという事が町に並んでいる店屋の種類からも想像されるのであった。
 駒沢村《こまざわむら》というのがやはりこの線路にある事も始めて知った。頭の中で離れ離れになってなんの連絡もなかったいろいろの場所がちょうど数珠《じゅず》の玉を糸に連ねるように、電車線路に貫ぬかれてつながり合って来るのがちょっとおもしろかった。
 学校で教わったり書物を読んだりして得た知識もやはり離れ離れになりがちなものである。ただ自分が何かの問題にまともにぶつかって、そのほうの必要からこれらの知識を通り抜ける時に、すべての空虚な知識が体験の糸に貫ぬかれて始めて生きて連結して来る。これと同じようなものだと思う。
 農科の実科の学生が二三人乗っていた。みんな大きな包みのようなものを携えている。休日でもないのにどこへ行くのだろうと思って気をつけていた。すると途中からもう一人同じ帽章をつけたのが乗り込んで、いきなり入り口に近く腰掛けていた一人の肩をたたき「オイ、どうした」と声をかけた。その言葉の響きのある機微な特徴で、私はこの学生が固有の日本人でない事を知った。気をつけてみると、つい私の隣にかけていた連れの一人の読んでいる新聞が漢字ばかりのものであった。容貌《ようぼう》から見るとどうもシナではなくて朝鮮から来た人たちらしく思われた。
 玉川《たまがわ》の川原では工兵が架橋演習をやっていた。あまりきらきらする河原には私の捜すような画題はなかったので、川とこれに並行した丘との間の畑地を当てもなく東へ歩いて行った。広い広い桃畑があるが、木はもうみんな葉をふるってしまって、果実を包んだ紙の取り残されたのが雨にたたけてくっついている。少しはなれて見ると密生したこずえの色が紫色にぼうとけむったように見える。畑の間を縫う小道のそばのところどころに黄ばんだ榛《はん》の木のこずえも美しい。
 丘の上へ登ってみようと思って道を捜していると池のようなもののそばに出た。さざ波一つ立たない池に映った丘の森の色もまたなく美しいものである。みぎわに茂る葭《あし》の断え間に釣《つ》りをしている人があった。私の近づく足音を聞くと振り返ってなんだかひどく落ち付かぬふうを見せた。もしこの池で釣魚《つり》をする事が禁ぜられてでもいるか、そうでないとすれば、この人はやはり自分のようなたち[#「たち」に傍点]の、言わばすわりの悪い[#「すわりの悪い」に傍点]良心をもった人間だろうと思われた。そして悪い事をしていなくても、人から悪い事をしていると思われはしないかと思うと同時に、実際悪い事をしていると同じ心持ちになるというたち[#「たち」に傍点]の男かもしれないと思った。そして同病相哀れむ心から私は急いでそこを通り過ぎねばならなかった。
 ようやく丘の下の往還に出ると、ちょうどそこから登る坂道があった。登りつめるときれいな芝を植えた斜面から玉川沿いの平野一面を見晴らす事ができた。しかしそれよりも私の目をひいたのは、丘の上の畑の向こう側に柿《かき》の大木が幾本となく並んでその葉が一面に紅葉しているのであった。その向こうは一段低くなっていると見えて柿のこずえの下にある家の藁葺屋根《わらぶきやね》だけが地面にのっかっているように見えていた。ここで画架を立てて二時間余りを無心に過ごした。
 崖《がけ》をおりて停車場のほうへ行く道ばたには清らかな小流れが音を立てて流れていた。小川の岸に茂るいろいろの灌木《かんぼく》はみんなさまざまの秋の色彩に染められていた。小川と丘との間の一帯の地に、別荘らしい家がところどころに建っている。後ろには森を背負い、門前の小川には小橋がかかっている、なんとなしに閑寂な趣のあるいい土地だと思う。しかしこの小川の流れが衛生のほうから少し気になる点もあると思った。
 電車は小学校の遠足のかえりでいっぱいであった。よんどころなく車掌台に立って外を見ていると、ある切り通しの崖《がけ》の上に建てた立派な家のひさしが無残に暴風にこわされてそのままになっているのが目についた。液体力学の教えるところではこういう崖の角《かど》は風力が無限大になって圧力のうんと下がろうとする所である。液体力学を持ち出すまでもなく、こういう所へ家を建てるのは考えものである。しかしあるいは家のほうが先に建っていたので切り通しのほうがあとにできたかもしれない。そうだとすると電車の会社はこの家の持ち主に明白な損害を直接に与えたものだという事が科学的に立証されるわけである。これによく似た場合は物質的のみならず精神的の各方面にも至るところにあるが損害をかけた人も受けた人も全然その場合の因果関係に心づかない事が多いように思われる。そのおかげでわれわれは枕《まくら》を高くして眠っていられる。そして言論や行動の自由が許されている。春秋《しゅんじゅう》の筆法が今は行なわれないのであろう。そうでなければこんな事もうっかりは言われない。
 世田が谷近くで将校が二人乗った。大尉のほうが少佐に対して無雑作な言語使いでしきりに話しかけていた。少佐は多く黙っていた。その少佐の胸のボタンが一つはとれて一つはとれかかっているのが始終私の気にかかった。
 同乗の小学生を注意して見ると、もち
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