には構内の倉庫の屋根が黒くそびえて、近景に積んだ米俵には西日が黄金のように輝いており、左のほうの澄み通った秋空に赤や紫やいろいろの煙が渦巻《うずま》きのぼっているのがあまりに美しかったから、いきなり絵の具箱を柵《さく》の上に置いてWCの壁にもたせかけ大急ぎのスケッチをしようとした。板はただ一枚しかなかったから、さっきの絵の裏へきわめて大まかにかき始めた。
 場所が場所だけに見物がだんだん背後に集まって来た。車夫もくれば学生も来ているようであった。しかし大急ぎでこの瞬間の光彩をつかもうとしてもがいている私には、とてもそんな人たちにかまっているだけの余裕はなかった。それでも人々の言葉は時々耳にはいる。私が新しくブラシをおろすたびに、「煙だよ」とか「電柱だよ」とか一々説明してくれる人もあって、なんだか少し背中や首筋のへんがくすぐったいような気持ちもした。そういう人の同情に報いるためには私の絵がもう少し人の目にうまく見えなければ気の毒だと思うのであった。
 ほんのだいたいの色と調子の見当をつけたばかりで急いで絵の具箱を片付けてしまった。さてふり返って見るともうだれもいなかった。人々の好奇心の目的物はやっぱりこの私ではなくて「絵をかいてるどこかの人」であったのである。このぶんなら東京の町中でもどうやら写生ができそうな気もした。
 行きにいっしょであった女学校の一団と再び同じ汽車に乗り合わせたが、生徒たちは行きとはまるで別人のように活発になっていた。あの物静かな唱歌はもう聞かれなくなって、にぎやかなむしろ騒々しい談笑が客車の中に沸き上がった。小さなバスケットや信玄袋《しんげんぶくろ》の中から取り出した残りものの塩せんべいやサンドウイッチを片付け[#「片付け」に傍点]ていた生徒たちの一人が、そういうものの包み紙を細かく引き裂いては窓から飛ばせ始めると、風下の窓から手を出してそれを取ろうとするものが幾人も出て来た。窓ぎわにすわっていた若い商人ふうの男もいっしょになってそのような遊戯を享楽していた。この暖かい小春の日光はやはり若い人たちの血のめぐりをよくしたのであろう。このような血のめぐりのいい時に、もしほんとうの教育、人の心を高い境地に引き上げるような積極的な教育が施されたら、どんなに有効な事であろう。
 元気のいい人たちの中には少数の沈んだ顔もあった。けんかでもしたのかハンケチを顔に押しあてて泣いているのもあった。これも小春の日光の効果の一面かもしれなかった。
 途中から乗った学生とも職工ともつかぬ男が、ベンチの肱掛《ひじか》けに腰をおろして周囲の女生徒にいろんな冗談を言って笑わしていた。「学校はどこ……小石川《こいしかわ》?、○○? △△?……」などと女学校の名前らしいものを列挙していたが生徒のほうではだれもはっきりした答えを与えないでただ笑っていた。どうして小石川という見当をつけたかが私には不思議に思われた。それぞれのエキスパートが品物の産地を言い当てるように、この男にはやはり特別な眼識が備わっているのかと思われた。そう言われるとなるほどなんとなく小石川らしくも思われない事はなかった。
 田端《たばた》へ着くともういよいよ日が入りかけた。夕日に染められた構内は朝見た時とはまるでちがったさらにさらに美しい別の絵になっていた。数多い展覧会の絵の中で一枚もこの美しい光景を描いたものを見ないのが不思議に思われた。しかしいくら日本の鉄道省でも画家の写生を禁じているとは考え得られなかった。

 十月十六日、日曜。きのうの漫歩がからだにも精神にも予想以上にいい効果があったように思われたので、きょうもつづけて出かけてみる事にした。きのう汽車の窓から見ておいた浦和《うらわ》付近の森と丘との間を歩いてみようと思ったのである。きのう出る時にはほとんどなんのあてもなしであったのが、ただ一度の往復で途中へ数えきれないほどの目当てができてしまった。自分らの研究の仕事でもよく似た事がある。ただ空で考えるだけでは題目《テーマ》はなかなか出て来ないが、何か一つつつき[#「つつき」に傍点]始めるとその途中に無数の目当てができすぎて困るくらいである。そういう事でも、興味があるからやるというよりは、やるから興味ができる場合がどうも多いようである。
 きょうは日曜で汽車は不合理な不正当な満員であった。ほとんど身動きもできないほどで、出る時に出られるかどうかと思うくらいであった。網棚《あみだな》に絵の具箱をのせる空所もなかったのでベンチにのせかけて持っているうちに、誤って取り落とすと隣に立っていた老人の足に当たった。老人はちょっとおこったような顔を見せたが、驚いてあやまったらすぐに心が解けたようである。私はこんな時にいつでも思う事がある。自分はなぜ平気ですましていて、もし面と向かっておこられたら、そんな所に足をもって来ているやつがあるか気をつけろとどなりつけるだけの勇気[#「勇気」に傍点]がないのだろう。この勇気がなくてはとても今の世間をのんびりした気持ちでは渡って行かれないらしい。昔は命を的にしなければ、うっかり誤ってでも人の足も踏めず、悪口も無論言われなかった。私の血縁の一人は夜道で誤って突き当たった人と切り合って相手を殺し自分は切腹した。それが今では法律に触れない限り、自分のめがねで見て気に入らない人間なら、足を踏みつけておいて、さかさまにののしるほうが男らしくていいのである。そういう事を道楽のようにして歩いている人格者もある。それで私は自分の子供らの行く末を思うなら、そういうふうに今から教育しなければさきで困るのではないかと思う事もしばしばある。
「赤羽《あかばね》で今電気をたく[#「電気をたく」に傍点]ところをこさえ[#「こさえ」に傍点]ているが、それができるとはや[#「はや」に傍点]……」こんな事を話している男があった。電気をたくという言葉がおもしろかった。日本語もこういうぐあいに活用させる人ばかりだったら、字を見なければわからないあるいは字を見ても読めないような生硬な術語などをやめてしまって、もう少し親しみのあるものに代える事ができそうである。国語調査会とかいうものでこういういい言葉を調べ上げたらよさそうに思われた。
 浦和の停車場からすぐに町はずれへ出て甘藷《さつまいも》や里芋やいろいろの畑の中をぶらぶら歩いた。とある雑木林の出っ鼻の落ち葉の上に風呂敷《ふろしき》をしいてすわり込んで向かいの丘を写し始めた。平生はただ美しいとばかりで不注意に見過ごしている秋の森の複雑な色の諧調《かいちょう》は全く臆病《おくびょう》な素人《しろうと》絵かきを途方にくれさせる。まだ目の鋭くないわれわれ初学者にとってはおそらくこれほどいい材料はあるまい。しかし黒人《くろうと》になればたぶんただ一面のちゃぶ台、一握りの卓布の面の上にでもやはりこれだけの色彩の錯綜《さくそう》が認められるのであろう。それほどになるのも考えものであるとも思うが、しかしたとえ楽しみ事にしろやっぱりそこまで行かなければつまらないとも思う。
 畑に栽培されている植物の色が一切れごとにそれぞれ一つも同じものはない。打ち返されて露出している土でも乾燥の程度や遠近の差でみんなそれぞれに違った色のニュアンスがある。それらのかなりに不規則な平面的分布が、透視法《パースペクチーヴ》という原理に統一されて、そこに美しい幾何学的の整合を示している。これらの色を一つ取りかえても、線を一つ引き違えても、もうだめだという気がする。
 十歳ぐらいの男の子が二人来て後ろのほうで見ていた。「いいねえ」「いい色だねえ」などと言っているのがやはり子供らしい世辞のように聞こえた。遠慮深い小さな声で言っているのであったがさすがにきのうの大宮の車夫とはちがって、絵の中の物体を指摘したりしないで「色」を言ったりするところがそれだけ新しい時代の子供であるのかもしれない。
 ここはいいかげんに切り上げて丘の上の畑の中を歩いた。黍《きび》を主題にしたのが一枚かきたかったがどうもぐあいのいい背景が見つからなかった。同じ畑の中をなんべんも往復しているのを少し離れた畑で働いていた農夫が怪しんでいるようで少し気が引けた。自分が農夫になって見た時にこの絵の具箱をぶら下げて歩いている自分がいかにも東京ののらくら[#「のらくら」に傍点]者に見えるので心細かった。とうとう鉄道線路のそばの崖《がけ》の上に腰かけて、一枚ざっとどうにか書き上げてしまった。

 十月十八日、火曜。午後に子供を一人つれて、日暮里《にっぽり》の新開町を通って町はずれに出た。戦争のためにできたらしい小工場が至るところに小規模な生産をやっている。ともかくも自分の子供の時にはみんな貴重な舶来物であった品物が、ちゃんとここらのこんな見すぼらしい工場でできてきれいなラベルなどをはられて市場に出てくるのであろう。それだけでも日本がえらくなったには相違ない。これでもし世界じゅうの他の国が昔のままに「足踏み」をして、日本の追いつくのを待っていてくれたらさぞいいだろう。
 町はずれに近く青いペンキ塗りの新築が目についた。それを主題にしたスケッチを一枚かこうと思って適当な場所を捜していると、ちゃんとした本物の画学生らしいのが二人、同じ「青い家」を取り入れて八号ぐらいの画布をかいているのに出会った。一人は近景に黍の行列を入れ一人は溝《みぞ》にかかった板橋を使っていた。一人のは赤黒く一人のは著しく黄色っぽい調子が目についた。
 私は少し行き過ぎて、深い掘割溝《ほりわりみぞ》の崖《がけ》の縁にすわって溝渠《こうきょ》と道路のパースペクチーヴをまん中に入れたのを描いた。近所の子供らが入り代わり何人となくのぞきに来た。このへんの子供にはだいぶ専門的の知識があって「チューブ」だの「パレット」だのという言葉を言っているのが聞こえた。そして浦和へんの子供とはすべての質が違っていた。
 帰りに、腰に敷いていた大きな布切れのちりを払おうとした拍子に取り落とした。それが溝の崖のずっと下のほうに引っかかって容易には取り上げる事ができないので、そのままにして帰った。この布切れが今でもやっぱり引っかかっているかもしれない。この日かいた絵を見ると、絵の下のほうにこの布切れがぶら下がっているような気がしてしかたがない。人殺しをした人間のある場合の心持ちはどこかこれと似たものがあるのかもしれない。(中略)

 十月二十九日、土曜。王子《おうじ》電車で小台《おだい》の渡しまで行った。名前だけで想像していたこの渡し場は武蔵野《むさしの》の尾花の末を流れる川の岸のさびしい物哀れな小駅であったが、来て見るとまず大きな料理屋兼旅館が並んでいる間にペンキ塗りの安西洋料理屋があったり、川の岸にはいろんな粗末な工場があったり、そして猪苗代湖《いなわしろこ》の水力で起こした電圧幾万幾千ボルトの三相交流が川の高い空をまたいでいるのに驚かされた。
 先月からの雨に荒川《あらかわ》があふれたと見えて、川沿いの草木はみんな泥水《どろみず》をかむったままに干上がって一様に情けない灰色をしていた。全色盲の見た自然はあるいはこんなものだろうかという気がして不愉快であった。
 高圧電線の支柱の所まで来ると、川から直角に掘り込んで来た小さな溝渠《こうきょ》があった。これに沿うて二条のトロのレールが敷いてあって、二三町隔てた電車通りの神社のわきに通じている。溝渠《こうきょ》の向こう側には小規模の鉄工場らしいものの廃墟《はいきょ》がある。長い間雨ざらしになっているらしい鉄の構造物はすっかり赤さびがして、それが青いトタン屋根と美しい配合を示している。煙突なども倒れかかったままになってなんとなく荒れ果てたながめである。この工場のために掘ったかと思われる裏のため池には掘割溝《ほりわりみぞ》から川の水を導き入れてあった。その水門がくずれたままになっているのも画趣があった。池の対岸の石垣《いしがき》の上には竹やぶがあって、その中から一本の大榎《おおえのき》がそびえているが、そのこずえの紅や
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