顔に押しあてて泣いているのもあった。これも小春の日光の効果の一面かもしれなかった。
 途中から乗った学生とも職工ともつかぬ男が、ベンチの肱掛《ひじか》けに腰をおろして周囲の女生徒にいろんな冗談を言って笑わしていた。「学校はどこ……小石川《こいしかわ》?、○○? △△?……」などと女学校の名前らしいものを列挙していたが生徒のほうではだれもはっきりした答えを与えないでただ笑っていた。どうして小石川という見当をつけたかが私には不思議に思われた。それぞれのエキスパートが品物の産地を言い当てるように、この男にはやはり特別な眼識が備わっているのかと思われた。そう言われるとなるほどなんとなく小石川らしくも思われない事はなかった。
 田端《たばた》へ着くともういよいよ日が入りかけた。夕日に染められた構内は朝見た時とはまるでちがったさらにさらに美しい別の絵になっていた。数多い展覧会の絵の中で一枚もこの美しい光景を描いたものを見ないのが不思議に思われた。しかしいくら日本の鉄道省でも画家の写生を禁じているとは考え得られなかった。

 十月十六日、日曜。きのうの漫歩がからだにも精神にも予想以上にいい効果があっ
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