に違った色のニュアンスがある。それらのかなりに不規則な平面的分布が、透視法《パースペクチーヴ》という原理に統一されて、そこに美しい幾何学的の整合を示している。これらの色を一つ取りかえても、線を一つ引き違えても、もうだめだという気がする。
 十歳ぐらいの男の子が二人来て後ろのほうで見ていた。「いいねえ」「いい色だねえ」などと言っているのがやはり子供らしい世辞のように聞こえた。遠慮深い小さな声で言っているのであったがさすがにきのうの大宮の車夫とはちがって、絵の中の物体を指摘したりしないで「色」を言ったりするところがそれだけ新しい時代の子供であるのかもしれない。
 ここはいいかげんに切り上げて丘の上の畑の中を歩いた。黍《きび》を主題にしたのが一枚かきたかったがどうもぐあいのいい背景が見つからなかった。同じ畑の中をなんべんも往復しているのを少し離れた畑で働いていた農夫が怪しんでいるようで少し気が引けた。自分が農夫になって見た時にこの絵の具箱をぶら下げて歩いている自分がいかにも東京ののらくら[#「のらくら」に傍点]者に見えるので心細かった。とうとう鉄道線路のそばの崖《がけ》の上に腰かけて、一枚ざっとどうにか書き上げてしまった。

 十月十八日、火曜。午後に子供を一人つれて、日暮里《にっぽり》の新開町を通って町はずれに出た。戦争のためにできたらしい小工場が至るところに小規模な生産をやっている。ともかくも自分の子供の時にはみんな貴重な舶来物であった品物が、ちゃんとここらのこんな見すぼらしい工場でできてきれいなラベルなどをはられて市場に出てくるのであろう。それだけでも日本がえらくなったには相違ない。これでもし世界じゅうの他の国が昔のままに「足踏み」をして、日本の追いつくのを待っていてくれたらさぞいいだろう。
 町はずれに近く青いペンキ塗りの新築が目についた。それを主題にしたスケッチを一枚かこうと思って適当な場所を捜していると、ちゃんとした本物の画学生らしいのが二人、同じ「青い家」を取り入れて八号ぐらいの画布をかいているのに出会った。一人は近景に黍の行列を入れ一人は溝《みぞ》にかかった板橋を使っていた。一人のは赤黒く一人のは著しく黄色っぽい調子が目についた。
 私は少し行き過ぎて、深い掘割溝《ほりわりみぞ》の崖《がけ》の縁にすわって溝渠《こうきょ》と道路のパースペクチーヴをまん中に入れたのを描いた。近所の子供らが入り代わり何人となくのぞきに来た。このへんの子供にはだいぶ専門的の知識があって「チューブ」だの「パレット」だのという言葉を言っているのが聞こえた。そして浦和へんの子供とはすべての質が違っていた。
 帰りに、腰に敷いていた大きな布切れのちりを払おうとした拍子に取り落とした。それが溝の崖のずっと下のほうに引っかかって容易には取り上げる事ができないので、そのままにして帰った。この布切れが今でもやっぱり引っかかっているかもしれない。この日かいた絵を見ると、絵の下のほうにこの布切れがぶら下がっているような気がしてしかたがない。人殺しをした人間のある場合の心持ちはどこかこれと似たものがあるのかもしれない。(中略)

 十月二十九日、土曜。王子《おうじ》電車で小台《おだい》の渡しまで行った。名前だけで想像していたこの渡し場は武蔵野《むさしの》の尾花の末を流れる川の岸のさびしい物哀れな小駅であったが、来て見るとまず大きな料理屋兼旅館が並んでいる間にペンキ塗りの安西洋料理屋があったり、川の岸にはいろんな粗末な工場があったり、そして猪苗代湖《いなわしろこ》の水力で起こした電圧幾万幾千ボルトの三相交流が川の高い空をまたいでいるのに驚かされた。
 先月からの雨に荒川《あらかわ》があふれたと見えて、川沿いの草木はみんな泥水《どろみず》をかむったままに干上がって一様に情けない灰色をしていた。全色盲の見た自然はあるいはこんなものだろうかという気がして不愉快であった。
 高圧電線の支柱の所まで来ると、川から直角に掘り込んで来た小さな溝渠《こうきょ》があった。これに沿うて二条のトロのレールが敷いてあって、二三町隔てた電車通りの神社のわきに通じている。溝渠《こうきょ》の向こう側には小規模の鉄工場らしいものの廃墟《はいきょ》がある。長い間雨ざらしになっているらしい鉄の構造物はすっかり赤さびがして、それが青いトタン屋根と美しい配合を示している。煙突なども倒れかかったままになってなんとなく荒れ果てたながめである。この工場のために掘ったかと思われる裏のため池には掘割溝《ほりわりみぞ》から川の水を導き入れてあった。その水門がくずれたままになっているのも画趣があった。池の対岸の石垣《いしがき》の上には竹やぶがあって、その中から一本の大榎《おおえのき》がそびえているが、そのこずえの紅や
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