顔に押しあてて泣いているのもあった。これも小春の日光の効果の一面かもしれなかった。
途中から乗った学生とも職工ともつかぬ男が、ベンチの肱掛《ひじか》けに腰をおろして周囲の女生徒にいろんな冗談を言って笑わしていた。「学校はどこ……小石川《こいしかわ》?、○○? △△?……」などと女学校の名前らしいものを列挙していたが生徒のほうではだれもはっきりした答えを与えないでただ笑っていた。どうして小石川という見当をつけたかが私には不思議に思われた。それぞれのエキスパートが品物の産地を言い当てるように、この男にはやはり特別な眼識が備わっているのかと思われた。そう言われるとなるほどなんとなく小石川らしくも思われない事はなかった。
田端《たばた》へ着くともういよいよ日が入りかけた。夕日に染められた構内は朝見た時とはまるでちがったさらにさらに美しい別の絵になっていた。数多い展覧会の絵の中で一枚もこの美しい光景を描いたものを見ないのが不思議に思われた。しかしいくら日本の鉄道省でも画家の写生を禁じているとは考え得られなかった。
十月十六日、日曜。きのうの漫歩がからだにも精神にも予想以上にいい効果があったように思われたので、きょうもつづけて出かけてみる事にした。きのう汽車の窓から見ておいた浦和《うらわ》付近の森と丘との間を歩いてみようと思ったのである。きのう出る時にはほとんどなんのあてもなしであったのが、ただ一度の往復で途中へ数えきれないほどの目当てができてしまった。自分らの研究の仕事でもよく似た事がある。ただ空で考えるだけでは題目《テーマ》はなかなか出て来ないが、何か一つつつき[#「つつき」に傍点]始めるとその途中に無数の目当てができすぎて困るくらいである。そういう事でも、興味があるからやるというよりは、やるから興味ができる場合がどうも多いようである。
きょうは日曜で汽車は不合理な不正当な満員であった。ほとんど身動きもできないほどで、出る時に出られるかどうかと思うくらいであった。網棚《あみだな》に絵の具箱をのせる空所もなかったのでベンチにのせかけて持っているうちに、誤って取り落とすと隣に立っていた老人の足に当たった。老人はちょっとおこったような顔を見せたが、驚いてあやまったらすぐに心が解けたようである。私はこんな時にいつでも思う事がある。自分はなぜ平気ですましていて、もし面と向かっておこられたら、そんな所に足をもって来ているやつがあるか気をつけろとどなりつけるだけの勇気[#「勇気」に傍点]がないのだろう。この勇気がなくてはとても今の世間をのんびりした気持ちでは渡って行かれないらしい。昔は命を的にしなければ、うっかり誤ってでも人の足も踏めず、悪口も無論言われなかった。私の血縁の一人は夜道で誤って突き当たった人と切り合って相手を殺し自分は切腹した。それが今では法律に触れない限り、自分のめがねで見て気に入らない人間なら、足を踏みつけておいて、さかさまにののしるほうが男らしくていいのである。そういう事を道楽のようにして歩いている人格者もある。それで私は自分の子供らの行く末を思うなら、そういうふうに今から教育しなければさきで困るのではないかと思う事もしばしばある。
「赤羽《あかばね》で今電気をたく[#「電気をたく」に傍点]ところをこさえ[#「こさえ」に傍点]ているが、それができるとはや[#「はや」に傍点]……」こんな事を話している男があった。電気をたくという言葉がおもしろかった。日本語もこういうぐあいに活用させる人ばかりだったら、字を見なければわからないあるいは字を見ても読めないような生硬な術語などをやめてしまって、もう少し親しみのあるものに代える事ができそうである。国語調査会とかいうものでこういういい言葉を調べ上げたらよさそうに思われた。
浦和の停車場からすぐに町はずれへ出て甘藷《さつまいも》や里芋やいろいろの畑の中をぶらぶら歩いた。とある雑木林の出っ鼻の落ち葉の上に風呂敷《ふろしき》をしいてすわり込んで向かいの丘を写し始めた。平生はただ美しいとばかりで不注意に見過ごしている秋の森の複雑な色の諧調《かいちょう》は全く臆病《おくびょう》な素人《しろうと》絵かきを途方にくれさせる。まだ目の鋭くないわれわれ初学者にとってはおそらくこれほどいい材料はあるまい。しかし黒人《くろうと》になればたぶんただ一面のちゃぶ台、一握りの卓布の面の上にでもやはりこれだけの色彩の錯綜《さくそう》が認められるのであろう。それほどになるのも考えものであるとも思うが、しかしたとえ楽しみ事にしろやっぱりそこまで行かなければつまらないとも思う。
畑に栽培されている植物の色が一切れごとにそれぞれ一つも同じものはない。打ち返されて露出している土でも乾燥の程度や遠近の差でみんなそれぞれ
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング