て膳《ぜん》の前で楊枝《ようじ》と団扇《うちわ》とを使っていた鍛冶屋《かじや》の主人は、袖無《そでな》しの襦袢《じゅばん》のままで出て来た。そして鴨居《かもい》から二つ鋏《はさみ》を取りおろして積もった塵《ちり》を口で吹き落としながら両ひじを動かしてぐあいをためして見せた。
 柄の短いわりに刃の長く幅広なのが芝刈り専用ので、もう一つのはおもに木の枝などを切るのだが芝も刈れない事はない。芝生《しばふ》の面積が広ければ前者でなくては追い付かないが、少しばかりならあとのでもいい。素人《しろうと》の家庭用ならかえってこれがいいかもしれないなどと説明しながら、そこらに散らばっている新聞紙を切って見せたりした。「こういう物はやっぱり呼吸ですから……。」そんな事を言った、また幾枚も切り散らして、その切りくずで刃の塵《ちり》をふいたりした。
 芝を刈る鋏と言えば一通りしかないものと簡単に思い込んでいた私は少し当惑した。このような原始的な器械にそんな分化があろうとは予期していなかった。どちらにしようかと思ってかわるがわる二つの鋏を取り上げてぐあいを見ながら考えていた。なるほど芝を刈るにはどうしても専用のものがぐあいがいいという事は自分にも明白に了解された。しかしそれで枯れ枝などを切ると刃が欠けるという主人の言葉はほんとうらしかった。
 私はなんだか試験をされているような気がした。主人は団扇《うちわ》と楊枝《ようじ》とを使いながら往来をながめていた。子供は退屈そうに時々私の顔を見上げていた。
 とうとう柄の長いほうが自分の今の運動の目的には適しているというある力学的な理由を見つけた、と思ったのでそのほうを取る事にした。
 鋏を柄に固定する目くぎをまださしてないから少し待ってくれというので、それができるまでそこらを散歩する事にした。しばらく歩いて帰って来て見ると目くぎはもうさされていて、支点の軸に油をさしているところであった。店先へ中年の夫婦らしい男女の客が来て、出刃庖丁《でばぼうちょう》をあれかこれかと物色していた。……私がどういうわけで芝刈り鋏《ばさみ》を買っているかがこの夫婦にわからないと同様に、この夫婦がどういう径路からどういう目的で出刃庖丁《でばぼうちょう》を買っているのか私には少しもわからなかった。その庖丁の未来の運命も無論だれにもわかろうはずはなかった。それでも髪を櫛巻《くしまき》に結った顔色の妙に黄色いその女と、目つきの険しい男とをこの出刃庖丁と並べて見た時はなんだか不安なような感じがした。これに反して私の鋏がなんだか平和な穏やかなもののように思われた。
 長い鋏をぶら下げて再び暗い屋敷町へはいった。今まで黙っていた子供は急に饒舌《じょうぜつ》になった。いつ芝を刈り始めるのか、刈る時には手伝わしてくれとか、今夜はもう刈らないかとか、そんな事をのべつにしゃべっていた。父が自分で芝を刈るという事がよほど珍しいおもしろい事ででもあるように。
 しかし私自身にとっても、それはやはり珍しく新しい事には相違なかった。
 宅《うち》へ帰ると家内じゅうのものがいずれも多少の好奇心と、漠然《ばくぜん》としたあすの期待をいだきながらかわるがわるこの新しい道具を点検した。
 翌日は晴天で朝から強い日が照りつけた。あまり暑くならないうちにと思って鋏を持って庭へ出た。
 どこから刈り始めるかという問題がすぐに起こって来た。それはなんでもない事であったがまた非常にむつかしい問題でもあった。いろいろの違った立場から見た答解はいろいろに違っていた。できるだけ短時間に、できるだけ少しの力学的仕事を費やして、与えられた面積を刈り終わるという数学的の問題もあった。刈りかけた中途で客間から見た時になるべく見にくくないようにという審美的の要求もあった。いちばん延び過ぎた所から始めるという植物の発育を本位に置いた考案もあった。こんな事にまで現代ふうの見方を持って来るとすれば、ともかくも科学的に能率をよくするために前にあげた第一の要求を満たす方法を選んだほうがよさそうに思われた。能率を論ずる場合には人間を器械と同様に見るのであるが、今の場合にはそれでは少し困るのであった。もともと自分の健康という事が主になっている以上、私はこの際最も利己的な動機に従って行くほかはないと思ったので、結局日陰の涼しい所から刈り始めるというきわめて平凡なやり方に帰ってしまった。
 するとまたすぐに第二の問題に逢着《ほうちゃく》した。芝生《しばふ》とそれより二寸ぐらい低い地面との境界線の所は芝のはえ方も乱雑になっているし、葉の間に土くれなどが交じっているために刈りにくくめんどうである。その上に刈り取った葉がかぶさったりするとなおさら厄介《やっかい》であった。それでまずこの境界線のはえぎわを整理した後に平
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