胚子《はいし》に類したものを味わっているらしく見える。子供が虫をつかまえたり、いじめたり殺したりするのは、やはりいわゆる種属的記憶と称するものの一つでもあろうか。このような記憶あるいは本能が人間種族からすっかり消え去らない限り、強者と弱者の関係はあらゆる学説などとは無関係に存続するだろう。
 子供らはまたよくかやつり[#「かやつり」に傍点]草を芝の中から捜し出した。三角な茎をさいて方形の枠形《わくがた》を作るというむつかしい幾何学の問題を無意識に解いて、そしてわれわれの空間の微妙な形式美を味わっている事には気がつかないでいた。相撲取草《すもうとりぐさ》を見つけて相撲を取らせては不可解な偶然の支配に対する怪訝《けげん》の種を小さな胸に植えつけていた。
 芝の中からたんぽぽやほおずきやその他いろいろの雑草もはえて来た。私はなんだかそれを引き抜いてしまうのが惜しいような気がするのでそのままにしておくと、いつのまにか母や下女がむしり取るのであった。
 夏が進むにつれて芝はますます延びて行った。芝生《しばふ》の単調を破るためにところどころに植えてある小さなつつじやどうだん[#「どうだん」に傍点]やばらなどの根もとに近い所は人に踏まれないためにことに長く延びて、それがなんとなくほうけ[#「ほうけ」に傍点]立ってうるさく見えだした。母などは病人の頭髪のようで気持ちが悪いと言ったりした。植木屋へはがきを出して刈らせようと言っているうちに事に紛れて数日過ぎた。
 そのうちに私はふと近くの町の鍛冶屋《かじや》の店につるしてあった芝刈り鋏《ばさみ》を思い出した。例年とちがってことしは暇である。そして病気にさわらぬ程度にからだを使って、過度な読書に疲れた脳に休息を与えたいと思っていたところであったので、ちょうど適当な仕事が見つかったと思った。芝の上にすわり込んで静かに両腕を動かすだけならば私の腹部の病気にはなんのさしつかえもなさそうに思われた。もっとも一概に腕や手を使うだけなら腹にはこたえないという簡単な考えが間違いだという事はすでに経験して知っていた。たとえばタイプライターをたたいたり、ピアノをひいたりするような動作でもどうかするとひどく胃にこたえる事がしばしばあった。ことに文句に絶えず頭を使いながらせき込んで印字機の鍵盤《けんばん》をあさる時、ひき慣れないむつかしい楽曲をものにしようとして努力する時、そういう時には病的に過敏になった私の胃はすぐになんらかの形式で不平を申し出した。しかしこれは手や指を使うというよりもむしろ頭を使うためらしく思われた、芝を刈るというような、機械的な、虚心でできる動作ならばおそらくそんな事はあるまいと思われた。少なくも一日に半時間か一時間ずつ少しも急いだり努力したりしないで、気楽にやっていればさしつかえはあるまい。こんな事を考えながら私は試みに両腕を動かして鋏《はさみ》を使うまねをしてみた。まだ実際には経験しない芝刈りの作業を強く頭に印象させながら腕を動かしてみたが、腹に力を入れるような感覚は少しも生じて来ないらしかった。念のために今度は印字機に向かったつもりになって両手の指を動かしているといつのまにか横隔膜の下のほうが次第に堅く凝って来るのを感じた。
 このような仮想的の試験があてになるかどうかは自分にも曖昧《あいまい》であったが、ともかくも一つ実物について試験をしてみて、もしさわりがありそうであったら、すぐにやめればよいと思った。
 風のない蒸し暑いある日の夕方私はいちばん末の女の子をつれて鋏《はさみ》を買いに出かけた。燈火の乏しい樹木の多い狭い町ばかりのこのへんの宵闇《よいやみ》は暗かった。めったに父と二人で出る事のない子供は何かしら改まった心持ちにでもなっているのか、不思議に黙っていた。私も黙っていた。ある家の前まで来ると不意に「山本《やまもと》さんの……セツ子さんのおうちはここよ」と言って教えた。たぶん幼稚園の友だちの家だろうと思われた。「セツ子さんは毎朝おとうさんが連れて来るのよ。」……「おとうさんはいつになったらお役所へ出るの。……出るようになったら幼稚園までいっしょに行きましょうね。」こんな事をぽつりぽつり話した。表通りへ出るとさすがに明るかった。床屋のガラス戸からもれる青白い水のような光や、水菓子屋の店先に並べられた緑や紅や黄の色彩は暗やみから出て来た目にまぶしいほどであった。しかしその隣の鍛冶屋《かじや》の店には薄暗い電燈が一つついているきりで恐ろしく陰気に見えた。店にはすぐに数えつくされるくらいの品物――鍬《くわ》や鎌《かま》、鋏《はさみ》や庖丁《ほうちょう》などが板の間の上に並べてあった。私の求める鋏《はさみ》はただ二つ、長いのと短いのと鴨居《かもい》からつるしてあった。
 ちょうど夕飯をすまし
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