ある。そうして短くても一週間は通《かよ》って毎日このとおりのことを繰り返さなければならないのであった。手術料は毎回払いであったが、いつも先生自身で小さな手さげ金庫の文字錠をひねっておつりを出してくれたのが印象に残っている。
西洋へ行く前にどうしても徹底的にわるい歯の清算をしておく必要があるのでおおよそ半月ほど毎日○○病院に通《かよ》った。継ぎ歯、金冠、ブリッジなどといったような数々の工事にはずいぶんめんどうな手数がかかった。抜歯も何本か必要であったが、昔とちがってコカインのおかげでたいした痛みはなかった。ただし、左の下あごの犬歯の根だけ残っていたのが容易に抜けないので、がんじょうな器械を押し当ててぐいぐいねじられたときは顎骨《がくこつ》がぎしぎし鳴って今にも割れるかと思うようで気持ちが悪かった。手術がすんだら看護婦が葡萄酒《ぶどうしゅ》を一杯もって来て飲まされ、二三十分|椅子《いす》にもたれたまま休息することを命ぜられた。自分はそれほどに思わなかったが脳貧血の兆候が顔に現われたものと見える。この時に全部の手術を受け持ってくれたF学士に抜歯術に関する力学的解説を求められたので、大判洋紙五六枚に自分の想像説を書きつけてさし出したのであった。それはいいかげんなものであったろうが、しかしこうした方面にも力学の応用の分野があることを知って愉快に思った。
いよいよ西洋へ出発となって神戸《こうべ》まで行ったらあす船に乗るという日に、もう前歯の前面に取り付けた陶器の歯が後面の金板から脱落した。あわてて神戸の町を歩いて歯医者を捜してやっと応急取り付け法を講じてもらったが、ベルリンへ着いてまもなくまたいけなくなった。その時かかったドイツの医者は、細工はなんとなく不器用であったが、しかしその修理法がいかにも合理的で、一時の間に合わせでなくて長持ちのするような徹底的のものであるのに感心した。その歯医者が、治療した歯の隣の歯を軽くつついてそれがゆらゆら動くのを見つけて驚いたような顔をした。そうしてうやうやしく直立不動の姿勢を取り、それから両肩をすぼめておいて両方の手のひらをぱっと開いて前方に向け、首を傾けてじっと自分の顔を見つめるという表情法の実演をして見せてくれた。物を言わないで物を言うよりも多くを相手に伝えるこの西洋流のしぐさは、なんでもこくめいに言葉で言い現わしたがるドイツ人には珍しいと思われた。
西洋から帰ってY町に住まってからも歯はだんだん悪くなるばかりであった。ある年の暮れから正月へかけてひどく歯が痛むのを我慢して火燵《こたつ》にあたりながらベルグソンを読んだことがある。その因縁でベルグソンと歯痛とが連想で結びつけられてしまった。彼の「笑い」までが歯痛の連想に浸潤されてしまったのである。
その後偶然にたいへんに親切で上手《じょうず》でぐあいのいい歯医者が見つかってそれからはずっとその人にやっかいになって来たが、先天的の悪い素質と後天的不養生との総決算で次第にかんで食えるものの範囲が狭くなって来た。柔らかい牛肉も魚のさし身もろくにかめなくなり、おしまいには米の飯さえ満足に咀嚼《そしゃく》することが困難になったので、とうとう思い切って根本的に大清算を決行して上下の入れ歯をこしらえたのが四十余歳のころであった。上あごの硬口蓋《こうこうがい》前半をぴったりふたをしてしまった心持ちはなんとも言えない不愉快なものである。しかし入れ歯のできあがった日に、試みに某レストランの食卓についてまず卓上の銀皿《ぎんざら》に盛られたナンキン豆をつまんでばりばりと音を立ててかみ砕いた瞬間に不思議な喜びが自分の顔じゅうに浮かび上がって来るのを押えることができなかった。義歯もたしかに若返り法の一つである。
入れ歯と言ってもはじめは下の前歯と右の犬歯だけはまだ残っていたのが長い間にはだんだんにそれもいけなくなり最後には犬歯一本を残した総入れ歯になってしまった。その最後の木守りの犬歯がとうとうひとりでふらふらと抜け出したときはさすがにさびしかった。その抜けた跡だけ穴のあいた入れ歯をはめたままで今日に至っている。
父はきげんのよくない時総入れ歯を舌ではずしてくちびるの間に突き出したり引っ込ませたりする癖があった。自分も総入れ歯をしてみてはじめて父のこの癖の意味がわかったような気がする。実際気持ちの不愉快なときは、平生でもとかく気になる入れ歯がよけいに気になりだす。歯ぐきや硬口蓋《こうこうがい》への圧迫から来る不快の感覚が精神的不快の背景の前に異常に強調されて来るらしい。覚えず舌で入れ歯を押しはずして押し出そうとする。これは不愉快なときにつばを吐きたくなるのと同じような生理的心理的現象かもしれない。しかし入れ歯は吐き出して捨てるわけに行かないから引っ込ませてはめ込む。どうも不愉快だからまた吐き出す。
入れ歯を作ってもらってから長くなると歯ぐきが次第に退化して来るためか、どうも接触が密でなくなる。その結果は上あごの入れ歯がややもすると脱落しやすくなる。自分の場合には、妙なことには何か少し改まって物を言おうとすると自然にそれがたれ落ちそうになる。たとえば講演でもしようとして最初の言葉を言おうとするときにきっと上の入れ歯が自然にぽたりと落下して口をふさごうとするのである。緊張のために口の中のどこかがどうにか変形するためらしい。いやな気持ちがあごをゆがめるのかもしれない。
入れ歯と歯ぐきとの接触の密なことは紙一重のすきまも許さないくらいのものらしい。どこかが少しきつく当たって痛むような場合に、その場所を捜し見つけ出してそこを木賊《とくさ》でちょっとこするとそれだけでもう痛みを感じなくなる。それについて思い出すのは次の実話である。スクラインの「シナ領中央アジア」という本の中にある。
東トルキスタンのヤルカンドにミッション付きの歯医者がいた。この人の所へある日遠方の富裕な地主イブラヒム・ベグ・ハジからの手紙をもった使いが来て、「入れ歯を一そろい作ってこの使いの者に渡してくれ」とのことであった。そこで歯医者は返事をかいて、「口中をよく拝見した上でないと入れ歯はできないから御足労ながら当地までおいで願いたい」と言ってやった。するとまた使いに手紙を持たせて、「御案内誠にかたじけない。お言葉に甘えて老僕イシャク・バイをつかわす。この男の口中の格好はだいたい自分のと同様である。もっともこの男には歯が一本もないが自分には上の左の犬歯が一本残っている。それでこの男の口に合うようにして、ただし犬歯の所だけ明けておいてくれ」と言って来た。医者のほうでは「それはどうもできかねる」ということになって、それでこの珍奇な交渉は絶えてしまった。その後この歯医者がカシュガルに器械持参で出かけるついでの道すがらわざわざこのイブラヒム老人のためにその居村に立ち寄って、かねての話の入れ歯を作ってやろうと思った。老人を手術台にのせて口中を検査してみると、残った一本の歯というのがもうすっかりむしばんでぶらぶらになっていた。そこでそれを抜こうとしたが老人|頑《がん》としてどうしても承知しない。結局「アルラフの神のおぼしめしじゃ、わしは御免こうむる。さようなら」と言って、それっきりで事件が終結した。ほんとうのおはなしである。
それはとにかく、自分たち平生科学の研究に従事しているものが全然専門の知識に不案内な素人《しろうと》からいろいろの問題について質問を受けて答弁を求められる場合に、どうかすると時々ちょうどこのヤルカンドの歯医者の体験したのとよく似た困難を体験することがある。
それからまた○○などで全国の科学研究機関にサーキュラーを発して、数々のかなり漠然《ばくぜん》たる研究題目とそれに対して支給すべき零細の金額とを列挙してそれらの問題の研究引受人を募ることがあるようであるが、あれなどもやはりこのイブラヒム老人の入れ歯の注文とどこか一脈相通ずるところがあるような気がするのである。実際具体的な目的の詳細にわからない注文にぴったりはまるような品物を向けることは不可能である。
もっともそう言えば結婚でも就職でも、よく考えてみればみんなイシャクの入れ歯をイブラヒムの口にはめて、そうして歯ぐきがそれにうまく合うように変形するまで我慢できるかできないかを試験するようなものかもそれはわからないのである。
話は変わるが、歯は「よわい」と読んで年齢を意味する。アラビア語でも sinn というのは歯を意味しまた年齢をも意味する。「シ」と「シン」と音の似ているのも妙である。とにかく歯は各個人にとってはそれぞれ年齢をはかる一つの尺度にはなるが、この尺度は同じく年を計る他の尺度と恐ろしくちぐはぐである。自分の知っている老人で七十余歳になってもほとんど完全に自分の歯を保有している人があるかと思うと四十歳で思い切りよく口腔《こうこう》の中を丸裸にしている人もある。頭を使う人は歯が悪くなると言って弁解するのは後者であり、意志の強さが歯に現われるというのは前者である。
同じ歯の字が動詞になると「天下恥与之歯《てんかこれとともによわいするをはず》」におけるがごとく「肩をならべて仲間になる」という意味になる。歯がずらりと並んでいるようにならぶという譬喩《ひゆ》かと思われる。並んだ歯の一本がむしばみ腐蝕《ふしょく》しはじめるとだんだんに隣の歯へ腐蝕が伝播《でんぱ》して行くのを恐れるのであろう。しかし天下の歯がみんなむし歯になったらこんな言葉はもういらなくなる勘定であろう。
歯の役目は食物を咀嚼《そしゃく》し、敵にかみつき、パイプをくわえ、ラッパの口金をくちびるに押しつけるときの下敷きになる等のほかにもっともっと重大な仕事に関係している。それはわれわれの言語を組み立てている因子の中でも最も重要な子音のあるものの発音に必須《ひっす》な器械の一つとして役立つからである。これがないとあらゆる歯音《デンタル》が消滅して言語の成分はそれだけ貧弱になってしまうであろう。このように物を食うための器械としての歯や舌が同時に言語の器械として二重の役目をつとめているのは造化の妙用と言うか天然の経済というか考えてみると不思議なことである。動物の中でもたとえばこおろぎや蝉《せみ》などでは発声器は栄養器官の入り口とは全然独立して別の体部に取り付けられてあるのである。だから人間でも脇腹《わきばら》か臍《へそ》のへんに特別な発声器があってもいけない理由はないのであるが、実際はそんなむだをしないで酸素の取り入れ口、炭酸の吐き出し口としての気管の戸口へ簧《した》を取り付け、それを食道と並べて口腔《こうこう》に導き、そうして舌や歯に二役《ふたやく》掛け持ちをさせているのである。そうして口の上に陣取って食物の検査役をつとめる鼻までも徴発して言語係を兼務させいわゆる鼻音《ネーザル》の役を受け持たせているのである。造化の設計の巧妙さはこんなところにも歴然とうかがわれておもしろい。
こおろぎやおけらのような虫の食道には横道に※[#「口+素」、第4水準2−4−20]嚢《そのう》のようなものが付属しているが、食道直下には「咀嚼胃《カウマーゲン》」と名づける袋があってその内側にキチン質でできた歯のようなものが数列縦に並んでいる。この「歯」で食物をつッつきまぜ返して消化液をほどよく混淆《こんこう》させるのだそうである。ここにも造化の妙機がある。またある虫ではこれに似たもので濾過器《ろかき》の役目をすることもあるらしい。
もしかわれわれ人間の胃の中にもこんな歯があってくれたら、消化不良になる心配が減るかとも思われるが、造化はそんなぜいたくを許してくれない。そんな無稽《むけい》な夢を描かなくても、科学とその応用がもっと進歩すれば、生きた歯を保存することも今より容易になり、また義歯でも今のような不完全でやっかいなものでなくてもっと本物に近い役目をつとめるようなものができるかもしれない。しかし一つちょっと困ったことには若くて有為な科学者はたぶん入れ歯の改良などには痛切な興味を感じにく
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