いた瞬間に不思議な喜びが自分の顔じゅうに浮かび上がって来るのを押えることができなかった。義歯もたしかに若返り法の一つである。
入れ歯と言ってもはじめは下の前歯と右の犬歯だけはまだ残っていたのが長い間にはだんだんにそれもいけなくなり最後には犬歯一本を残した総入れ歯になってしまった。その最後の木守りの犬歯がとうとうひとりでふらふらと抜け出したときはさすがにさびしかった。その抜けた跡だけ穴のあいた入れ歯をはめたままで今日に至っている。
父はきげんのよくない時総入れ歯を舌ではずしてくちびるの間に突き出したり引っ込ませたりする癖があった。自分も総入れ歯をしてみてはじめて父のこの癖の意味がわかったような気がする。実際気持ちの不愉快なときは、平生でもとかく気になる入れ歯がよけいに気になりだす。歯ぐきや硬口蓋《こうこうがい》への圧迫から来る不快の感覚が精神的不快の背景の前に異常に強調されて来るらしい。覚えず舌で入れ歯を押しはずして押し出そうとする。これは不愉快なときにつばを吐きたくなるのと同じような生理的心理的現象かもしれない。しかし入れ歯は吐き出して捨てるわけに行かないから引っ込ませてはめ込む。
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