違うのはこれに限らない事ではあるが、このはしご灸《きゅう》などは一つのおもしろい実験である。ただその感覚の段階的変化を表示する尺度がまだ発見されていないのは残念である。
そのころの郷里には「切りもぐさ」などはなかったらしく、紙袋に入れたもぐさの塊《かたまり》から一ひねりずつひねり取っては付けるから下手《へた》をやると大小ならびにひねり方の剛柔の異同がはなはだしく、すえられるほうは見当がつかなくて迷惑である。母は非常にこれが上手《じょうず》で粒のよくそろったのをすえてくれた。一つは母の慈愛がそうさせたであろう。女中などが代わると、どうかするとばかに大きいのや堅びねりのが交じったり、線香の先で火のついたのを引き落として背中をころがり落とさせたりして、そうしてこっちが驚いておこるとよけいにおもしろがってそうするのではないかという嫌疑《けんぎ》さえ起こさせるのであった。
南国の真夏の暑い真盛りに庭に面した風通しのいい座敷で背中の風をよけて母にすえてもらった日の記憶がある。庭では一面に蝉《せみ》が鳴き立てている。その蝉の声と背中の熱い痛さとが何かしら相関関係のある現象であったかのような幻覚が残っている。同時にまた灸の刺激が一種の涼風のごときかすかな快感を伴なっていたかのごとき漠然《ばくぜん》たる印象が残っているのである。
背中の灸《きゅう》の跡を夜寝床ですりむいたりする。そのあとが少し化膿《かのう》して痛がゆかったり、それが帷子《かたびら》でこすれでもすると背中一面が強い意識の対象になったり、そうした記憶がかなり鮮明に長い年月を生き残っている。そういうできそこねた灸穴《きゅうけつ》へ火を点ずる時の感覚もちょっと別種のものであった。
一日分の灸治を終わって、さて平手でぱたぱたと背中をたたいたあとで、灸穴へ一つ一つ墨を塗る。ほてった皮膚に冷たい筆の先が点々と一抹《いちまつ》の涼味を落として行くような気がする。これは化膿しないためだと言うが、墨汁の膠質粒子《こうしつりゅうし》は外からはいる黴菌《ばいきん》を食い止め、またすでに付着したのを吸い取る効能があるかもしれない。
寒中には着物を後ろ前に着て背筋に狭い窓をあけ、そうして火燵《こたつ》にかじりついてすえてもらった。神経衰弱か何かの療法に脊柱《せきちゅう》に沿うて冷水を注ぐのがあったようであるが、自分の場合は背筋のまん中に沿うて四五寸の幅の帯状区域を寒気にさらして、その中に点々と週期的な暑さの集注点をこしらえるという複雑な方法を取ったわけである。そういう、西洋のえらい医学の大家の夢にも知らない療養法を須崎港《すさきこう》の宿屋で長い間続けた。その手術を引き受けていたのは幡多《はた》生まれで幡多なまりの鮮明なお竹《たけ》という女中であった。三十年前の善良にして忠実なるお竹の顔をありあり思い出すのであるが、その後の消息を明らかにしない。無事でいればもうずいぶんおばあさんになっていることであろう。
灸などきくものかと一概にけなす人もある。もしなんの効能もないとすると、祖先の日本人は仏法伝来と同時に輸入されたというこの唐人のぺてんに二千年越しだまされつづけて無用なやけどをこしらえて喜んでいたわけである。
二千年来信ぜられて来たという事実はそれが真であるという証拠には少しもならない。しかし灸《きゅう》の場合には事がらが精神的ばかりでなくともかくも生理的な生き身の一部に明白な物理的化学的な刺激を直接密接に与えるのであるから、きくきかぬが生理的に実証の審判にかけられうるわけだと思われる。
生理学の初歩の書物を読んでみると、皮膚の一部をつねったりひねったりするだけで、腹部の内臓血管ことにその細動脈が収縮し、同時に筋や中枢神経系に属する血管は開張すると書いてある。灸をすえるのでも似かよった影響がありそうである。のみならず、焼かれた皮膚の局部では蛋白質《たんぱくしつ》が分解して血液の水素イオン濃度が変わったり、周囲に対する電位が変わったり、ともかくもその付近の細胞にとっては重大な事件が起こる。それが一つの有機体であるところの身体の全部にたとえ微少でもなんらかの影響のないはずはなさそうである。
それがある病気にどれだけきくかはまた別問題であるがそれは立派に一つの研究問題になる事であり、そうしてまさに日本の医者生理学者の研究すべき問題である。それだのに不思議なことには従来灸治の科学的研究をして学位でも取ったという人は、あるかもしれないがあまりよく知られていないようである。今にドイツとか米国とかでだれかが歌麿《うたまろ》や北斎《ほくさい》を発見したように灸治法の発見をして大論文でも書くようになれば日本でも灸治研究が流行をきたすかもしれないと思われる。
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