でも刺すようにして一点くっつけてはまたながめて考え込むというのである。この話を聞いているうちになんだか非常に愉快になって来た。そういう仕事をしている画家と、非常にデリケートな物理の実験をやって敏感なねじをいじってはめがねをのぞいている学者と全く兄弟分のような気がしておもしろくなって来た、そしてどういうわけか急におかしくなって笑い出すとT君もいっしょに笑い出してしまった。
それから二三日たってT君の宅へ行って同君の昔かいた自画像を二枚見せてもらった。それは小さな板へかいた習作であったがなるほど濃厚な絵の具をベタベタときたならしいように盛り付けたものであった。しかし自分ののっぺりした絵と比べて見るとこのほうが比較にならぬほどいきいきしていてまっ黒な絵の具の底に熱い血が通《かよ》っていそうな気がした。
もっとも考えてみるとこのくらいの事は今始めて知ったわけではない。この自分の自画像がもし他人の絵であったとしたらおそらく始めからまるで問題にならないで打っちゃってしまうほどつまらないものかもしれない。ただそれが自分のかいたのであるがためにこんなわかりきった事がわからないでいたのをT君の像をながめているうちにやっとの事で明白に実認したに過ぎない。いったい自分は、多くの人々と同様に、自分の理解し得ないものを「つまらない」と名づけたり、自分と型のちがった人を「常識がない」と思ったりするような事がかなりありそうであるが、幸いにあるいは不幸にして、自分の絵を一つの単純な絵として見て黒人《くろうと》のと比較する時に、自分のほうがいいと思いうるほどの自信がないと見えて、T君の絵と説とにすっかり感心してしまった。そうして頭を新しく入れ換えて第三号の自画像に取りかかる事にした。
T君のすすめに従って今度はカンバスへやることにした。六号という大きさの画布を枠《わく》に張ったのを買って来た。同時に画架も買って来てこれに載せた。なんだかいよいよ本式になって来たと思うと少し気味の悪いような気もしてすぐには手をつけられなかった。居間のすみの箪笥《たんす》のわきにある鏡台の前へすわって左から来る光に半面を照らさせ、そして鏡に映っているものは画架でも背後の箪笥でもその上にある本や新聞でも、見えるだけのものはみんなそのままにかいてみようと思ってやり始めた。
今度はなるべく顔を大きくするつもりで下図を始めたのであるが、どういうものか下図をかいているうちに思ったより小さくなってしまった。自分が大きくしようと思っているのに手と鉛筆とがそれを押え押えて顔を縮めて行くようにも思われた。実物に近いほどに書くつもりのがいつのまにか半分足らずぐらいのものになった。実物と思って見ているのが実は鏡の中の虚像で鏡より二倍の距離にあるから視角はかなり小さくなっている。それに画布のほうは手近にあるものだから、たとえ映像と絵と同じ視角にしても寸法は実物の半分以下になるわけだと思われる。それにしても人が鏡を見て自分の顔というものの観念をこしらえているが、左右|顛倒《てんとう》の事実は別として顔の大きさというものに対しても正当な観念を得る事はおそらく非常に困難だろうと思われだした。つまりわれわれはほんとうの自分の顔というものは一生知らずに済むのだという気さえした。自分の事は顔さえわからないのだ。だれかが「自分の背中だけは一生触れられない」と言った事を思い出す。
下図をすっかり消してかき直すのもめんどうであったし、またこのくらいの大きさのも一枚あっていいと思ってそのまま進行する事にした。妻と長女とに下図を見せて違った所を捜させるとじきにいろいろな誤りが発見された。他人が見ればそんなにたやすく見つかるような間違いが、かいている自分にはなかなかわからないのであった。
下図はとうとうあまりよく似ないままで絵の具をつけ始めた。かいて行くうちによくなるだろうと思ったが、なかなかそう行かない事はあとでだんだんにわかって来た。
もちろん顔から塗り始めた。始めにだいたいの肉色と影をつけてしまった時には、似てはいないがたいへん感じのいいような顔ができたのでこれは調子がいいと思って多少気乗りがして来た。そしてだんだんに細かく筆を使って似せるほうと色の調子とに気を配り始めるとそろそろむつかしくなる事が予覚されるようになって来た。まず第一に困った事は局部局部を見て忠実に写しているといつのまにか局部相互の位置や権衡が乱れてしまう。右の目の格好を一生懸命にかいてだいたいよくなったと思って少し離れて見るとその目だけが顔とは独立に横に脱線したりつり上がりねじれなどした。どうも右をかいている時と左をかいている時とで顔の傾斜が変わる癖があるらしかった。そのために左右の目は互いに自由行動をとってどうしても一つの顔の中に融和しな
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