象である。
 トーキーの場合には、実際の音の音色は決してそのままに記録され複製されない。それは録音ならびに発音器械の不完全から来る欠点である。そのために、ほんとうの音よりも適当な擬音のほうがかえってほんとうらしく聞こえるというおもしろい現象も起こるのである。それでこの録音ならびに発音器械の不完全を利用して、近いピストルを遠く聞かせたり、人声を井戸の底から響くように聞かせたりすることも可能になるわけである。フラスコの中で歌う人造人間の歌を、さもさもそうらしく聞かせるような音響トリックもできていいわけである。これらは器械技術者と監督との協力によってどうにもなることと思われる。
 映像の場合にも肉眼と写真カメラとの本質的差違のためにいろいろの問題は起こるが、これはもう周知の事でありこのためにいろいろのおもしろいトリックができるのである。 光の伝播《でんぱ》は実用上ほとんど瞬時的であるが、音の速度は常温では毎秒三百四十メートル程度である。それで三百四十メートルのかなたで花火が開けば、その音は光の傘《かさ》が開いてから一秒後に聞こえる。たとえば薄暮の水楼の欄干に男女が相対して話している。向こうの空に花火がぱっと開く。二人がそのほうを見る。しばらくしてぽーんと弱い爆音が聞こえる。この時間間隔がうまく行けばほんとうに花火らしい感じが出るであろう。また江上の夏の夜の情趣も浮かぶであろう。
 小銃弾の速度は毎秒九百メートルほどである。それで約一キロメートル前方の山腹で一斉《いっせい》射撃の煙が見えたら、それから一秒余おくれて弾《たま》が来て、それからまた二秒近くおくれて、はじめて音が聞こえるわけである。こんな事もトーキーの場合には問題になりうるであろう。
 音と光との回折や透過に関する差違はトーキーでもすでにいろいろに利用されている。酒場で悪漢が密談している間に、隣室で球突《たまつ》きのゲームをとる声と球の音が聞こえている。その音が急に高くなったと思うとドアーが開いて女が現われるというようなのは、これは、光が届かぬのに音の届く場合である。これに反して、ガラス窓の向こうで男女が何か小声で話しているのをこっちから見ているという種類のは、光を透過して音を遮断《しゃだん》した場合である。この種類の特殊な効果の可能性もまだ現在のトーキーでことごとくされているとは思われない。
 目はまぶたによって任意に開閉され、また頭を動かすことなしにある程度までは自由に左右上下に動かされる。しかし耳は耳だけではそういう自由をもたない。この事実にもいろいろな意味があるが、主要な目的論的意義はやはり光と音との本質的差異と連関している。しかしここではそれは別問題として、単にこの事実とトーキーの関係を考えてみる。
 音が聞こえてから、目でその音源を追究する代わりに、カメラを回《パン》してそれを追究する。これはよくやる手法である。それがうまく行っている場合には、観客は実際自分の目がそっちへ向くように感じる。しかし実は動かぬスクリーンを見つめているのである。この効果の最も著しく感ぜられる場合は、たとえば茂みの中を鉄砲を持って前進する猟者を側面から映写しながら追跡する場合である。スクリーンと自分の目とが静止しているとは思われなくて、スクリーンが猟者といっしょに進行するのを、絶えず目を横に動かして追跡しているとしか感じられない。おそらく実際眼球が周期的に動くのではないかと思われる。ところが音響の場合には、これに相当するような錯覚を起こすことはむつかしい。それができるくらいなら耳も、目と同じようにクリクリ動かせるようになっているはずと思われる。
 目が開閉自在であるという事実に基づくいろいろな現象は、やはりいくらかトーキーに応用されてもいいと思う。たとえばわれわれは音楽を聞きながら目を閉じて聞き入る場合がある。それで、トーキーの場合にも一時スクリーンを暗くして音だけを聞かせることによって効果を高めるということも上手《じょうず》にやればおもしろいに相違ない。
 目を閉じるといろいろの「光の舞踊」が見える。これはある程度までは生理的効果でだれにでも共通なものである。この現象はトーキーでなく無声映画でも利用されうるであろうが、しかしトーキーだといっそう有効に応用されうるわけである。たとえば、画中の人物が蒲団《ふとん》を引っかぶる。スクリーンにこの光の舞踊を思わせるものが適当に映出される。そうして枕《まくら》もとの時計のチクタクだけが高く響く、あるいは枕に押しつけた耳に響く脈搏《みゃくはく》を思わせる雑音を聞かせるのもいいかもしれない。しかし今のところでは発声器械の不完全なために生ずるいろいろな雑音が邪魔になるので、こういう技巧は当然失敗のほかないかもしれない。
 もっともこれらの場合では、観客
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