耳と目
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)基線《ベースライン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)光線|伝播《でんぱ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](昭和八年五月、映画評論)
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 耳も目も、いずれも二つずつ、われわれの頭の頂上からほぼ同じ距離だけ下がった所に開いている。目のほうは前面に二つ並んでほぼ同じ方向を向いているのに耳のほうは両側にあって、だいたいにおいて反対の方向に向いている。もっとも耳たぶがあるために各方の耳が精確にどちらに向いているかという事はそう簡単に言われないが、しかし、この平凡な事実は考えてみるといろいろなおもしろい意義をもっている。
 二つずつあるのは空間知覚のためであって、二つの間の距離が空間を測量するための基線《ベースライン》になるのである。耳と目とが同じ高さにあるのは視覚空間と聴覚空間との連絡、同格化《コーオルディネーション》のために便利であろうと思われる。ところが光線|伝播《でんぱ》は直線的であるので二つの目が同時に対象に向かっていなければならない。従って、二つが前面に並んでいないと不都合である。これに反して音の場合には音波が頭で回折されるから、一つの耳の反対の側から来る音でもその耳に到達する。しかし正面から来る音よりは弱く聞こえるのである。それで音源の方向を知るにはむしろ両耳が頭の反対の側にあるほうが好都合なわけになるのである。
 この事は、トーキーの場合にはそれほど問題にならないようにも思われる。観客はかなりな距離にあって、視角の限定されたスクリーンに対しているから、空間の深さの判断の正確さは始めから断念してかかっている。従って音の出る場所がその音に相当する視像と少しちがった方向と距離とにあってもたいして苦にならない。しかし物を言っている顔の大写しなどの場合には、この耳と目との空間知覚の齟齬《そご》が多少は起こるかもしれない。これは少し詳しく実験してみるとおもしろいと思う。
 またたとえば映画の中で一人の男が暗殺者のために思いがけなく射殺されるところがあるとする。突然なピストルの音とともにこの男が倒れる。その音が観客の正面の向こうのほうで響いたと思われるのに、ピストルを持った男がずっと横手のほうから現われて来ると思われるのではちょっと理屈に合わないわけである。しかしこういう場合でも、一方では音の方向知覚というものの本来不確実なために、また一方では劇場の複雑な反響のために、なおその上に、視像の暗示にだまされる錯覚のために、実際はたいした不都合は感じないかもしれない。
 それはとにかく、もしもわれわれが音源の距離方向を判断する能力が非常に鋭敏であったら、トーキーというものはたいへんやっかいな問題に出会うであろうが、そうでないのは幸いである。しかし上記のような耳と目との空間知覚性の差別は、トーキー製作者の一応記憶していてもしかるべき事であろうと思われる。
 耳と目の比較をする時に考えられる著しい差別は、耳が複雑な異種類の音響の複合物をその組成要素に分析する能力をもっているのに、目には視像を分析する能力がないという点にある。たとえば、ジンタ音楽と「いらっしゃいいらっしゃい」とが同時にオーヴァラップして聞こえていても、われわれはきれいに二つを別々に聞き分けることができるが、二つの少し込み合った映像の重合したものはただ混沌《こんとん》たる夢のようなものにしか見えない。たとえ二つのものは判別されても、二つのものの独自の属性は失われる。たとえば人間を通じて景色が見えるのでは、人間はもはや人間でなくて幽霊になってしまう。しかし音の重なる場合には二つのものはそれぞれ単独にある場合の独立性を失わない。
 この事実はトーキー製作者の利用のしかたによっては、いろいろの可能性を生み出すであろう。現在でもすでにかなり利用されてはいるようである。簡単平凡な例を取れば、対話中に来訪者のベルを響かせて、次に現われて来る人間を紹介する類である。しかしまだその方面で幾多のおもしろい新しい試みができるであろうと思われる。
 普通の発声映画の場合には色彩は問題にならない。カメラの目は全色盲だからである。しかし音の音程や音色は実にヴァイタルな重要性をもっている。ソプラノがベースに聞こえたりうぐいすの声が鵞鳥《がちょう》のように聞こえるのでは打ちこわしである。前述のピストルの場合でも音の強度より音色のほうが大切である。近いピストルの音と遠いピストルの音との差は、単なる強度《インテンシテイ》の差でなくて著しい音色《チンパー》の差である。それは雑音の中に含まれるいろいろな波長の音波が、それぞれ回折や分散の模様のちがうために起こる現
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