、しかもそれがあまり感じのよくない道路である。それで特に雨の降る日などは、この金曜日が一倍苦になるのであった。ところが妙なことには、どうかして金曜日に雨のふるまわりが来ると、来る週も来る週も金曜日というと雨が降る。前日まではいい天気だと思うていると、金曜の朝はもう降っているか、さもなくば行きには晴れであったのが帰りが雨になる。こういうことをしばしば感じるのである。そうかと思うとまた天気のいい金曜が続きだすとそれが幾週となく継続することもあるように思われた。もちろん他の週日に降る降らぬは全く度外視しての話である。
 これもやはり、他の多くの場合と同様に自分の注目し期待する特定の場合の記憶だけが蓄積され、これにあたらない場合は全然忘れられるかあるいは採点を低くして値踏みされるためかもしれない。しかし必ずしもそういう心理的の事実のみではなくて、実際に科学的な説明がいくぶんか付け得られるかもしれない。それは気圧変化にほぼ一週間に近い週期あるいは擬似的週期の現われることがしばしばあるからである。
 朝鮮で三寒四温という言葉があるそうで、これはまさに七日の週期を暗示する。自分が先年、東京における冬季の日々の気圧を曲線にして見たときに著しい七日ぐらいの週期を見たことがある。これについてはすでに専門家のまじめな研究もあるようであるから、時々同じ週日に同じ天気がめぐって来ても、これはそれほど不思議ではないわけである。
 深川の研究所が市の西郊に移転した。この新築へ初めて出かけた金曜日が雨、それから四週間か五週間つづけて金曜は天気が悪かった。耶蘇《やそ》のたたりが千九百三十年後の東洋の田舎《いなか》まで追究しているのかと冗談を言ったりした。ところがやっと天気のいい金曜の回りがやって来て、それから数週間はずっとつづいた。そうしたある美しい金曜日の昼食時に美しい日光のさした二階食堂でその朝突発した首相遭難のことを聞き知った。それからもいまだに好晴の金曜がつづいている。昼食後に研究所の屋上へ上がって武蔵野《むさしの》の秋をながめながら、それにしてももう一ぺん金曜日の不思議をよく考え直してみなければならぬと思うのである。

     地震国防

 伊豆《いず》地方が強震に襲われた。四日目に日帰りで三島町《みしままち》まで見学に出かけた。三島駅でおりて見たが瓦《かわら》が少し落ちた家があるくらいでたいした損害はないように見えた。平和な小春日がのどかに野を照らしていた。三島町へはいってもいっこう強震のあったらしい様子がないので不審に思っていると突然に倒壊家屋の一群にぶつかってなるほどと合点《がてん》が行った。町の地図を三十銭で買って赤青の鉛筆で倒れ屋と安全な家との分布をしるして歩いてみた。がんじょうそうな家がくちゃくちゃにつぶれている隣に元来のぼろ家が平気でいたりする。そうかと思うとぼろ家がつぶれて丈夫そうな家がちゃんとしているという当然すぎるような例もある。つぶれ家はだいたい蛇《へび》のようにうねった線上にあたる区域に限られているように見えた。地震の割れ目か、昔の川床か、もっとよく調べてみなければ確かな事はわからない。線にあたった人はふしあわせというほかはない。科学も今のところそれ以上の説明はできない。
 震央に近い町村の被害はなかなか三島の比ではないらしい。災害地の人々を思うときにあすはたが身の上ということに考え及ばないではいられない。
 軍縮問題が一時国内の耳目を聳動《しょうどう》した。問題は一に国防の充実いかんにかかっている。陸海軍当局者が仮想敵国の襲来を予想して憂慮するのももっともな事である。これと同じように平生地震というものの災害を調べているものの目から見ると、この恐るべき強敵に対する国防のあまりに手薄すぎるのが心配にならないわけには行かない。戦争のほうは会議でいくらか延期されるかもしれないが、地震とは相談ができない。
 大正十二年の大震災は帝都と関東地方に限られていた。今度のは箱根《はこね》から伊豆《いず》へかけての一帯の地に限られている。いつでもこの程度ですむかというとそうは限らないようである。安政元年十一月四日五日六日にわたる地震には東海《とうかい》、東山《とうさん》、北陸《ほくりく》、山陽《さんよう》、山陰《さんいん》、南海《なんかい》、西海《さいかい》諸道《しょどう》ことごとく震動し、災害地帯はあるいは続きあるいは断えてはまた続いてこれらの諸道に分布し、至るところの沿岸には恐ろしい津波が押し寄せ、震水火による死者三千数百、家屋の損失数万をもって数えられた。これとよく似たのが宝永四年にもあった。こういう大規模の大地震に比べると先年の関東地震などはむしろ局部的なものとも言える。今後いつかまたこの大規模地震が来たとする。そうして東京、横浜《よこはま》、沼津《ぬまづ》、静岡《しずおか》、浜松《はままつ》、名古屋《なごや》、大阪《おおさか》、神戸《こうべ》、岡山《おかやま》、広島《ひろしま》から福岡《ふくおか》へんまで一度に襲われたら、その時はいったいわが日本の国はどういうことになるであろう。そういうことがないとは何人も保証できない。宝永安政の昔ならば各地の被害は各地それぞれの被害であったが次の場合にはそうは行かないことは明らかである。昔の日本は珊瑚《さんご》かポリポくらげのような群生体で、半分死んでも半分は生きていられた。今の日本は有機的の個体である。三分の一死んでも全体が死ぬであろう。
 この恐ろしい強敵に備える軍備はどれだけあるか。政府がこれに対してどれだけの予算を組んでいるかと人に聞いてみてもよくわからない。ただきわめて少数な学者たちが熱心に地震の現象とその生因ならびにこれによる災害防止の研究に従事している。そうして実に僅少《きんしょう》な研究費を与えられて、それで驚くべき能率を上げているようである。おそらくは戦闘艦の巨砲の一発の価、陸軍兵員の一日分のたくあんの代金にも足りないくらいの金を使って懸命に研究し、そうして世界的に立派な結果を出しているようである。そうして世間の人はもちろん政府のお役人たちもそれについてはなんにも知らない。
 今度の伊豆地震《いずじしん》など、地震現象の機構の根本的な研究に最も有用な資料を多分に供給するものであろうが、学者の熱心がいかに強くても研究資金が乏しいため、思う研究の万分の一もできないであろうから、おそらくこの貴重な機会はまたいつものように大部分利用されずに逃げてしまうであろう。
 蟻《あり》の巣を突きくずすと大騒ぎが始まる。しばらくすると復興事業が始まって、いつのまにかもとのように立派な都市ができる。もう一ぺん突きくずしてもまた同様である。蟻《あり》にはそうするよりほかに道がないであろう。
 人間も何度同じ災害に会っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。東京市民と江戸町人と比べると、少なくも火事に対してはむしろ今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである。
 昔の為政者の中にはまじめに百年後の事を心配したものもあったようである。そういう時代に、もし地震学が現在の程度ぐらいまで進んでいたとしたらその子孫たる現在のわれわれは地震に対してもう少し安全であったであろう。今の世で百年後の心配をするものがあるとしたらおそらくは地震学者ぐらいのものであろう。国民自身も今のようなスピード時代では到底百年後の子孫の安否まで考える暇がなさそうである。しかしそのいわゆる「百年後」の期限が「いつからの百年」であるか、事によるともう三年二年一年あるいは数日数時間の後にその「百年目」が迫っていないとはだれが保証できるであろう。
 昔シナに妙な苦労性の男がいて、天が落ちて来ると言ってたいそう心配し、とうとう神経衰弱になったとかいう話を聞いた。この話は事によるとちょうど自分のような人間の悪口をいうために作られたかもしれない。この話をして笑う人の真意は、天が落ちないというのではなくて、天は落ちるかもしれないが、しかし「いつ」かがわからないからというのであろう。
 三島の町を歩いていたら、向こうから兵隊さんが二三人やって来た。今始めてこの町へはいって来てそうして始めてつぶれ家のある地帯にさしかかったところであった。その中の一人が「おもしろいな。ウム、こりゃあおもしろいな」と言ってしきりに感心していた。この「おもしろいな」というのは決して悪意に解釈してはならないと思った。この「おもしろいな」が数千年の間にわれらの祖先が受けて来た試練の総勘定であるかもしれない。そのおかげで帝都の復興が立派にできて、そうして七年後の今日における円タクの洪水《こうずい》、ジャズ、レビューのあらしが起こったのかもしれない。
 三島の町の復旧工事の早いのにも驚いた。この様子では半月もたった後に来て見たらもう災害の痕跡《こんせき》はきれいに消えているのではないかという気もした。もっと南のほうの損害のひどかった町村ではおそらくそう急には回復がむつかしいであろうが。
 三島神社の近くでだいぶゆすぶられたらしい小さなシナ料理店から強大な蓄音機演奏の音波の流れ出すのが聞こえた。レコードは浅草《あさくさ》の盛り場の光景を描いた「音画」らしい、コルネット、クラリネットのジンタ音楽に交じって花屋敷《はなやしき》を案内する声が陽気にきこえていた。警備の巡査、兵士、それから新聞社、保険会社、宗教団体等の慰問隊の自動車、それから、なんの目的とも知れず流れ込むいろいろの人の行きかいを、美しい小春日が照らし出して何かお祭りでもあるのかという気もするのであった。今度の地震では近い所の都市が幸いに無難であったので救護も比較的迅速に行き届くであろう。しかしもしや宝永安政タイプの大規模地震が主要の大都市を一なでになぎ倒す日が来たらわれらの愛する日本の国はどうなるか。小春の日光はおそらくこれほどうららかには国土|蒼生《そうせい》を照らさないであろう。軍縮国防で十に対する六か七かが大問題であったのに、地震国防は事実上ゼロである。そうして為政者の間ではだれもこれを問題にする人がない。戦争はしたくなければしなくても済むかもしれないが、地震はよしてくれと言っても待ってはくれない。地震学者だけが口を酸《す》っぱくして説いてみても、救世軍の太鼓ほどの反響もない。そうして恐ろしい最後の審判の日はじりじりと近づくのである。
 帰りの汽車で夕日の富士を仰いだ。富士の噴火は近いところで一五一一、一五六〇、一七〇〇から八、最後に一七九二年にあった。今後いつまた活動を始めるか、それとももう永久に休息するか、神様にもわかるまい。しかし十六世紀にも十八世紀にも活動したものが二十世紀の千九百何十年かにまた活動を始めないと保証しうる学者もないであろう。こんな事を考えながら、うとうとしているうちに日が暮れた。川崎《かわさき》駅を通るときにふと先日の「煙突男」を思い出した。そうしてあの男が十一月二十四日の午前四時までまだ煙突の上にとどまっていて、そうしてあの地震に大きく揺られたのであったら、彼はおりたであろうか、おりなかったであろうか。そんなことも考えてみるのであった。
 自分もどこかの煙突の上に登って地震国難来を絶叫し地震研究資金のはした銭募集でもしたいような気がするが、さてだれも到底相手にしてくれそうもない。政治家も実業家も民衆も十年後の日本の事でさえ問題にしてくれない。天下の奇人で金をたくさん持っていてそうして百年後の日本を思う人でも捜して歩くほかはない。
 汽車が東京へはいって高架線にかかると美しい光の海が眼下に波立っている。七年前のすさまじい焼け野原も「百年後」の恐ろしい破壊の荒野も知らず顔に、昭和五年の今日の夜の都を享楽しているのであった。
 五月にはいってから防火演習や防空演習などがにぎにぎしく行なわれる。結構な事であるが、火事よりも空軍よりも数百層倍恐ろしいはずの未来の全日本的地震、五六大都市を一なぎにするかもしれない大規模地震に対する防備の予行演習をや
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