時事雑感
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)茫然《ぼうぜん》と口をあいて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)古色|蒼然《そうぜん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和六年一月、中央公論)
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     煙突男

 ある紡績会社の労働争議に、若い肺病の男が工場の大煙突の頂上に登って赤旗を翻し演説をしたのみならず、頂上に百何十時間居すわってなんと言ってもおりなかった。だんだん見物人が多くなって、わざわざ遠方から汽車で見物に来る人さえできたので、おしまいにはそれを相手の屋台店が出たりした。これに関する新聞記事はおりからの陸軍大演習のそれと相交錯して天下の耳目をそばだたせた。宗教も道徳も哲学も科学も法律もみんなただ茫然《ぼうぜん》と口をあいてこの煙突の空の一個の人影をながめるのであった。
 争議が解決して煙突男が再び地上におりた翌日の朝私はいつも行くある研究所へ行った。ちょうど若い軍人たちがおおぜいで見学に来ていたが、四階屋上の露台から下を見おろしている同僚の一群を下の連中が見上げながら大声で何かからかっている。「おうい、もう争議は解決したぞ、おりろおりろ」というのが聞こえた。その後ある大学の運動会では余興の作りものの中にやはりこの煙突男のおどけた人形が喝采《かっさい》を博した。
 こうしてこの肺病の一労働青年は日本じゅうの人気男となり、その波動はまたおそらく世界じゅうの新聞に伝わったのであろう。
 この男のした事が何ゆえこれほどに人の心を動かしたかと考えてみた。新聞というものの勢力のせいもあるが、一つにはその所業がかなり独創的であって相手の伝統的対策を少なくも一時戸まどいをさせた、そのオリジナリティに対する賛美に似たあるものと、もう一つには、その独創的計画をどこまでも遂行しようという耐久力の強さ、しかも病弱の体躯《たいく》を寒い上空の風雨にさらし、おまけに渦巻《うずま》く煤煙《ばいえん》の余波にむせびながら、飢渇や甘言の誘惑と戦っておしまいまで決意を翻さなかったその強さに対する嘆賞に似たあるものとが、おのずから多くの人の心に共通に感ぜられたからであろうと思われる。しかし一方ではまた彼が不治の病気を自覚して死に所を求めていたに過ぎないのだと言い、あるいは一種の気違いの所業だとして簡単に解釈をつけ、そうしてこの所業の価値を安く踏もうとする人もあるであろう。そういう見方にも半面の真理はあるかもしれない。そういう批判などはどうでもいいが、私はこの煙突男の新聞記事を読みながら、ふと「これが紡績会社の労働者でなくて、自分の研究室の一員であったとしたら」と考えてみた。ともかくもだれのまねでもない、そうしてはなはだ合目的なこの一つの所行を、自分の頭で考えついて、そうしてあらゆる困難と戦ってそれをおしまいまで遂行することのできる人間が、もし充分な素養と資料とを与えられて、そうして自由にある専門の科学研究に従事することができたら、どんな立派な仕事ができるかもしれないという気がした。もちろんちょっとそういう気がしただけである。
 日本人には独創力がないという。また耐久力がないという。これはいかなる程度までの統計的事実であるかがわかりかねる。しかし少なくとも学術研究の方面で従来この二つのものがあまり尊重されなかったことだけは疑いもない事実である。従来だれもあまり問題にしなかったような題目をつかまえ、あるいは従来行なわれなかった毛色の変わった研究方法を遂行しようとするものは、たいていだれからも相手にされないか、陰であるいはまともにばかにされるか、あるいは正面の壇上からしかられるにきまっている。そうしてそれにかまわずいつまでもそれに執着していればおしまいには気違い扱いにされ、その暗示に負けてほんとうの気違いになるか、あるいはどこからかの権威の力で差しとめを食い手も足も出なくなってしまうという事になっているようである。もっとも多くの場合にこのような独創力と耐久力を併有しているような種類の人間は、同時にその性状が奇矯《ききょう》で頑強《がんきょう》である場合が多いから、学者と言っても同じく人間であるところの同学や先輩の感情を害することが多いという事実も争われないのである。そういう風変わりな学者の逆境に沈むのは誠にやむを得ないことかもしれない。そうして、またそういう独創的な仕事の常として「きずだらけの玉」といったようなものが多いから、アカデミックな立場から批評してそのきずだけを指摘すればこれを葬り去るのは赤子の手をねじ上げるよりも容易である。そうしてみがけば輝くべき天下の美玉が塵塚《ちりづか》に埋められるのである。これも人間的自然現象の一つでどうにもな
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