かった彼は「分光器が一つあるといいがなあ」と嘆息していた。そうして、やっと分光器が手に入って実験を始めるとまもなく一つの「発見」を拾い上げた。それは今日彼の名によって「ラマン効果」と呼ばれるものである。田舎《いなか》から出て来たばかりの田吾作《たごさく》が一躍して帝都の檜舞台《ひのきぶたい》の立て役者になったようなものである。そうして物理学者としての最高の栄冠が自然にこの東洋学者の頭上を飾ることになってしまった。思うにこの人もやはり少し変わった人である。多数の人の血眼になっていきせき追っかけるいわゆる先端的前線などは、てんでかまわないような顔をしてのんきそうに骨董《こっとう》いじりをしているように見えていた。そうして思いもかけぬ間道を先くぐりして突然|前哨《ぜんしょう》の面前に顔を突き出して笑っているようなところがある。
もっとも、ラマンのまねをするつもりで、同じように古くさい問題ばかりこつこつと研究をしていれば、ついにはラマンと同じように新しい発見に到達するかといえば、そういうわけには行かない。これも確かである。ただたまにはラマンのような例もあるから、われわれはそういう毛色の変わった学者たちも気長い目で守り立てたいと思うのである。
この世界的物理学者の話と、川崎《かわさき》の煙突男の話とにはなんら直接の関係はない。前者は賞をもらったが、後者は家宅侵入罪その他で告発されるという話である。これはたいへんな相違である。ただ二人の似ているのは人まねでないということと、根気のいいという点だけである。
それでもし煙突男の所業のまねをしたら、そのまねという事自身が人のまねをしない煙突男のまねではなくなるということになる。のみならず、昔話のまね爺《じじい》と同様によほどひどい目にあうのが落ちであろう。
オリジナリティの無いと称せらるる国の昔話に人まねを戒める説話の多いのも興味のあることである。
それから、また労働争議というはなはだオリジナルでない運動の中からこういう個性的にオリジナルなものが出現して喝采《かっさい》を博したのもまた一つの不思議な現象と言わなければならない。
金曜日
総理大臣が乱暴な若者に狙撃《そげき》された。それが金曜日であった。前にある首相が同じ駅で刺されたのが金曜日、その以前に某が殺されたのも金曜日であった。不思議な暗合であるというよ
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