トロピーの「時」とは対等のものである。
 今もしここに宇宙のエントロピーの量を指示する時計があると想像する。この時計の示す時刻は何を示すかといえば、それは宇宙の老衰の程度を示すものである。エネルギーの全量は不変でも、それはこの時計の進むにつれて墜落し廃頽《はいたい》して行く。この時計ほど適切に不可逆な時の進みを示すものはないのであろう。しかし実際このような時計があったとしても、それが吾人の日常普通の目的に適当したものではないかもしれぬ。第一に種々の個体の集団からできた一つの系を考える時、その個体各個のエントロピーの時計の歩調は必ずしも系全体のものの歩調と一致しない。従って個体相互の間で「同時」という事がよほど複雑な非常識的なものになってしまう。しかしそこにまたこの時計の妙味もあるのである。譬喩《ひゆ》を引けば浦島太郎が竜宮の一年はこの世界の十年に当たるというような空想や、五十年の人生を刹那《せつな》に縮めて嘗《な》め尽くすというような言葉の意味を、つまり「このエントロピーの時計で測った時の経過と普通の時計と比べて一年と十年また五十年と一瞬とに当たる」と説明すればよいかもしれぬ。これはただ通俗的な譬喩に過ぎないが、とにかく心理的に感ずる時の長短が人間自身ならびに周囲の物質的エントロピーの増加の多少と、いくぶんか相応じるように見えるのは興味のある事である。冬眠の状態にある蛙《かえる》が半年の間に増大させるエントロピーの量は、覚醒期間のそれに比べて著しく少ないに相違ない。
 次にエントロピーは一つの系全体にわたる積分として与えらるる性質のものであって、それが指定されても系を組織する各個体の現状は指定されない。これはこの時計の不便な点であって同時にすぐれた点である。ガス体の分子やエレクトロンの集団あるいは光束の集合場において各個部分の状態を論ぜんとしても普通の「時」を使う力学は役に立たなくなる場合がある。そういう場合にこのエントロピーのありがたみが始めて明白になって来るのである。
 かように、エントロピーの役に立つ場合には、必ずそこにいわゆる「分子的に混乱した(molekular ungeordnet)系」がある。分子やエレクトロンの数が有限である間はエントロピーは問題にならず、変化は単義的で可逆であるが、これが無限になって力学が無能となる時に、始めてエントロピーが出て来る。ボルツマンがこのような混乱系の内部の排置の公算《プロバビリティ》をエントロピーと結びつけたのは非常な卓見で物理学史上の大偉業であった。プランクはさらにこれを無限な光束の集団に拡張して有名な輻射《ふくしゃ》の方則を得たのは第二の進歩であった。すなわち系の複雑さが完全に複雑になれば統計という事が成り立ち、公算というものが数量的に確定したものになる。そして系の変化はその状態の公算の大なるほうへ大なるほうへと進むという事が、すなわちエントロピーの増大という事と同義になるのである。
「時」の不可逆という事にもまた分子的混乱系の存在が随伴している。前にあげたような、仙人と振り子とだけの簡単な世界では、可逆な「時」が可能であるが、吾人の宇宙はある意味で分子的混乱系である。ある学者の考えているように森羅万象をことごとく有限な方程式に盛って、あらゆる抽象前提なしに現象を確実に予言することは不可能であって、そのゆえにこそ公算論の成立する余地が存している。そのために吾人の「時」には不可逆の観念が伴なって来る。そのために未来と過去の差別が生じるのではあるまいか。未来に関して吾人の言いうる事は系の公算の増すという事だけではあるまいか。未来は「であろう」ですなわちプロバビリティのみである。この宇宙系のプロバビリティの流れはすなわちエントロピーの流れで、すなわち吾人の直感する不可逆な時の流れではあるまいか。
 エントロピーに随伴して来る観念は「温度」である。たとえば簡単な完全ガス体の系では容積を保定しておけば、エネルギーの増す時にそのエントロピーの増加は「温度」に反比する。前のような通俗的のたとえを引けば、人間のエントロピーの増大と「精神的の時」の進みが伴なうと仮定すれば、また一定の物理的エネルギーを与えられた時にその人の「時」の進み方はその人の感覚の鋭鈍によるものと仮定すれば、この場合の「温度」に相当するものは、すなわちその鋭鈍を計る尺度の読み取りに当たるものである。もっともこれはただ譬喩に過ぎない。物理学上の言葉の濫用かもしれぬ。しかしまじめな物理学上の事がらでエントロピーや温度の考えを拡張して行く余地は充分にあるように思われる。すなわちどこでも molekular ungeordnet[#「ungeordnet」は底本では「ungecrdnet」] の状態が入り込んで来る所には、これらの
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