――と言っていると、あの蚊がみんなおりて寄ってくるのね」という。
 自分の子供の時分、郷里ではそういう場合に「おらのおととのかむ――ん」という呪文《じゅもん》を唱えて頭上に揺曳《ようえい》する蚊柱《かばしら》を呼びおろしたものである。「おらのおとと」はなんのことかわからないが、この「む――ん」という声がたぶん蚊の羽根にでも共鳴して、それが、蚊にとってはすておき難い挑戦あるいは誘惑としての刺激を与えるせいであろうが、それにしても、その音源のどの方面にあるかということを一瞬間に識別するのはどういう官能に因るものか、考えてみると驚嘆すべき能力である。自分などは、往来でけたたましい自動車の警笛を聞いても存外それが右だか左だかということさえわからないことがあるのに、あの小さな蚊は即座に音源の所在を精確に探知し、そうして即座に方向舵《ほうこうだ》をあやつってねらいたがわずまっしぐらにそのほうへ飛来するのである。
 敵の飛行機の音を聞きつけてその方向を測知するという目的のために、文明国の陸軍では、途方もなく大きな、千手観音《せんじゅかんのん》の手のようなまたゴーゴンの頭のようなラッパをもった聴音器を作っている。しかし蚊のほうは簡単である。生まれた時からだれにも教わらずに役立つ最も鋭敏な優秀な器械を備えているのである。左右の羽根の刺激の不平均のために、無意識に自動的に羽根の動きの不平均が起こって、結局左右が平均するまでからだを回転させ、そうして刺激を増大するような方向に進行させるという自動調整器を持参しているのであろうか。
 銀座の楽器店の軒ばにつるした拡声器が「島の娘」のメロディーを放散していると、いつのまにか十人十五人の集団がその下に円陣を作るのも、あながち心理的ばかりではなくて、なにかわれわれのまだ知らない生理的な因子がはたらいているのかもしれない。
 朝九時ごろ出入りのさかな屋が裏木戸をあけて黙ってはいって来て、盤台を地面におろす、そのコトリという音が聞こえると、今まで中庭のベンチの上で死んだように長くなって寝そべっていた猫《ねこ》が、反射的に飛び起きて、まっしぐらに台所へ突進する。それももちろん結局は生理的であるとも言われようが、しかし、あらゆるいろいろの類似の「コトリ」という騒音の中で、特別な一つの種類であるところのさかな屋の盤台の音を瞬時に識別する能力はやはり驚くべきものである。
 近代の物質的科学は人間の感官を追放することを第一義と心得て進行して来た。それはそれで結構である。しかしあらゆる現代科学の極致を尽くした器械でも、人間はおろか動物や昆虫《こんちゅう》の感官に備えられた機構に比べては、まるで話にもならない粗末千万なものであるからおかしいのである。これほど精巧な生来持ち合わせの感官を捨ててしまうのは、惜しいような気がする。
 たとえば耳の利用として次のようなことも考えられる。
 すべての音は蓄音機のレコードの上に曲線として現わされる。反対にすべての週期的ないし擬週期的曲線は音として現わすことができる。たとえば験潮儀に記録されたある港の潮汐《ちょうせき》昇降の曲線をレコード盤に刻んでおいてこれを蓄音機にかければ、たぶんかなりな美しい楽音として聞かれるであろう。そうしてその音の音色はその港々で少しずつちがって聞こえるであろう。それでこのようにして「潮汐の歌」を聞くことによって、各地の潮汐のタイプをある度まで分類することができるかもしれない。あるいはまたこの方法によって、調和分析などにはかからない潮汐異常や、地方的固有振動を発見することもできるかもしれない。
 またたとえばひと月じゅうの気圧の日々の変化の曲線を音に直して聞けば、月によりまたその年によっていろいろの声が聞かれるであろう。その声を聞いてその次の月の天候を予測するようなことも、全く不可能ではないかもしれない。
 同じように米相場や株式の高下の曲線を音に翻訳することもできなくはないはずである。
 たとえば浅間温泉《あさまおんせん》からながめた、日本アルプス連峰の横顔を「歌わせる」ことも可能である。人間の横顔の額からあごまでの曲線を連ねて「音」にして聞き分けることも可能である。
 近ごろのトーキー録音方法の中でも濃淡式でない曲線式のを使えばこれはきわめて容易である。まず試みに各社名宝のスターの「横顔の音」でも聞かせたらどうであろう。

     七 においの追憶

 鼻は口の上に建てられた門衛小屋のようなものである。命の親のだいじな消化器の中へ侵入しようとするものを一々戸口で点検し、そうして少しでもうさん臭いものは、即座にかぎつけて拒絶するのである。
 人間の文化が進むに従ってこの門衛の肝心な役目はどうかすると忘れられがちで、ただ小屋の建築の見てくれの美観だけが問題になるようであるが、それでもまだこの門衛の失職する心配は当分なさそうである。感官を無視する科学者も時にはにおいで物質を識別する。むつかしやの隠居は小松菜《こまつな》の中から俎板《まないた》のにおいをかぎ出してつけ物の皿《さら》を拒絶する。一びん百円の香水でもとにかく売れて行くのである。一方ではまた、嗅覚《きゅうかく》と性生活との関係を研究している学者もあるくらいである。
 嗅覚につながる記憶ほど不思議なものはないように思う。たとえば夏の夕に町を歩いていて、ある、ものの酸敗したような特殊なにおいをかぐと、自分はどういうものかきっと三つ四つのころに住んでいた名古屋《なごや》の町に関するいろいろな記憶をよび起こされる。たとえばまた、銀座《ぎんざ》松屋《まつや》の南入り口をはいるといつでも感じられるある不思議なにおいは、どういうものか先年アンナ・パヴロワの舞踊を見に行ったその一夕の帝劇《ていげき》の観客席の一隅《いちぐう》に自分の追想を誘うのである。
 郷里の家に「ゴムの木」と称する灌木《かんぼく》が一株あった。その青白い粉を吹いたような葉を取って指頭でもむと一種特別な強い臭気を放つのである。この木は郷里の家以外についぞどこでも見たという記憶がない。近ごろよく喫茶店《きっさてん》などの卓上を飾るあの闊葉《かつよう》のゴムの木とは別物である。しかし今でも時々このいわゆる「ゴムの木」の葉のにおいに似たにおいをかぐことがある。するときっとこの昔の郷里のゴムの木のにおいを思い出すと同時にある幼時の特別な出来事の記憶が忽然《こつぜん》とよみがえって来るのである。
 なんでも南国の夏の暑いある日の小学校の教場で「進級試験」が行なわれていた。おおぜいの生徒の中に交じって自分も一生懸命に答案をかいていた。ところが、どうしたわけか、その教場の中に例のいやなゴムの葉の強烈なにおいがいっぱいにみなぎっていて、なんとも言われない不快な心持ちが鼻から脳髄へ直接に突き抜けるような気がしていた。それだのにおおぜいの他の生徒も監督の先生もみんな平気な顔をしてそんなにおいなど夢にも気がつかないでいるように思われた。それがまた妙に心細くひどくたよりなく思われた。
 たとえば、下肥《しもご》えのにおいやコールタールのにおいには、われわれに親しい人間生活の幻影がつきまとっている。それに付帯した親しみもありなつかしみもありうるであろう。しかし異国的なゴムの葉のにおいばかりは、少なくも当時の自分の連想の世界を超越した不思議な魔界の悪臭であった。この悪臭によって自分はこの現世から突きはなされてただ一人未知の不安な世界に追いやられるような心細さを感ずるのであった。もちろんその当時そんな自覚などあろうはずはなかったが、しかし名状のできないこの臭気に堪えかねて、とうとう脳貧血を起こしたのであった。
 もっとも幼時の自分は常に病弱で神経過敏で、たとえば群集に交じって芝居など見ていても、よく吐きけを催したくらいであるから、その時もやはり試験の刺激の圧迫ですでに脳貧血を起こしかけていたために、少しの異臭が病的に異常に強烈な反応を促進したかもしれない。
 それはとにかく、今でもいくらかこれに似た木の葉のにおいをかぐと、必ずこの昔の郷里の小学校の教場のある日のヴィジョンがありありと現われる。そうしてこれに次いでいろいろさまざまな幼時の記憶が不可解な感応作用で呼び出されるのである。

     八 鏡の中の俳優I氏

 某百貨店の理髪部へはいって、立ち並ぶ鏡の前の回転椅子《かいてんいす》に収まった。鏡に写った自分のすぐ隣の椅子に、半白で痩躯《そうく》の老人が収まっている。よく見ると、歌舞伎《かぶき》俳優で有名なIR氏である。鏡の中のI氏は、実物の筆者のほうを時々じろりじろりとながめていた。舞台で見る若さとちがって、やはりもうかなり老人という感じがする。自分のほうでもひそかにこの人の有名な耳と鼻の大きさや角度を目測していた。
 この人の芝居でいちばん自分の感心したのは船上の盛綱《もりつな》の物語の場である。しかしそれよりもこの人に感心したのは氏が先年H子夫人と同伴で洋行したときに、パリ在住の通信員によって某紙上に報ぜられたこの夫妻の行動に関する記事を読んだときである。パリのまん中でパリジャンを「異人」と呼び、アンバリードでナポレオンの墓を見て「ナンダやっぱりヤソじゃないか」と言ったとある。H夫人は、日本からわざわざ持参のホオズキを鳴らしながら、相手かまわずいっさい日本語で買い物をして歩いた。自分はこの記事を読んだときに実に愉快になってしまって、さっそく切抜帳の中にこれらの記事をはり込んだことであった。西洋人なら乞食《こじき》でも尊敬しようといったような日本人の多い中に、こういう純粋な日本人の江戸っ子が、一人でもまだ存在するということが当時の自分にはうれしかったのである。
 I氏の下側から見た鼻の二等辺三角形の頂角を目測しながら自分がつい数日前に遭遇したある小事件を思い出すのであった。
 ある途上で、一人の若い背の高い西洋人の前に、四五人の比較的に背の低いしかし若くて立派な日本人が立ち並んで立ち話をしていた。何を話しているかはわからなかったが、ただ一瞥《いちべつ》でその時に感ぜられたことは、その日本の紳士たちのその西洋人に対する態度には、あたかも昔の家来が主人に対するごとき、またある職業の女性が男性に対するごとき、何かしらそういったような、あるものがあるように感ぜられた。その西洋人がどれほどえらい人であったかは知らないが、単にえらさに対する尊敬とは少しちがったある物があるように感ぜられた。そうして、その時の自分にはそれがひどく腹立たしくも情け無くも思われまたはなはだしく憂鬱《ゆううつ》に感ぜられた。
 ことによると、実は自分自身の中にも、そういうふうに外国人に追従《ついしょう》を売るようなさもしい情け無い弱点があるのを、平素は自分で無理にごまかし押しかくしている。それを今眼前に暴露されるような気がして、思わずむっとして、そうして憂鬱になったのかもしれない。
 それはとにかく、自分はその同じ日の晩、ある映画の試写会に出席した。映写の始まる前に観客席を見回していたら、中央に某外国人の一団が繩張《なわば》りした特別席に陣取っていた。やがて、そこへ著名な日本の作曲家某氏夫妻がやって来てこの一団に仲間入りをした。まさに映写されんとする映画を作った監督はその某国の人であり、録音された音楽は全部この日本人の作曲である。見ているとこの外国人の一団はこの日本の作曲者を取り巻いてきわめて慇懃《いんぎん》な充分な敬意を表した態度で話しかけている。そうして、これに対するこの日本人は、たとえばまず弟子《でし》に対する教師ぐらいな、あるいは事によるともう少しいばった態度で、笑顔《えがお》一つ見せずにむしろ無愛想にあしらっている、というふうにともかくもその時の自分には見えたのである。それがなんとなくその時の自分には愉快であった。胸につかえていたものが一時に下がるような気がした。昼間見た光景がまさしく主客|顛倒《てんとう》したのである。しかしこの昼と夜との二つの光景を見る順序が逆であったら、心持ちは
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