試験管
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白靴《しろぐつ》を出して見ると

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元来|靴《くつ》というものは

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+僉」、第4水準2−4−39]
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     一 靴のかかと

 夏になったので去年の白靴《しろぐつ》を出して見ると、かかとのゴムがだいぶすり減っている。靴自身も全体にだいぶひどくなっているから一つ新調することにした。買いに行った店にはゴムのかかとのが無かったのでそのかわりに、かかとの一隅《いちぐう》に小さな三角形の鉄片を打ちつけたのをなんの気なしに買って来た。それで、古いほうの靴は近所の靴屋へ直しにやって、そうしてこの新しいのをおろしてはいて玄関から一歩踏み出してみて、そうして驚いた。
 かかとの裏の三角形の鉄片がまず門内の敷石と摩擦してゴリゴリまたゲリゲリとすさまじい音を立てる。道路のアスファルトでも、研究所の床のコンクリートでも、どこを歩いてもこの小さな鉄片がなりに似合わぬ高く鋭い叫び声を発して自己の存在を強調する。その音が頭の頂上まで突き抜けるように響き渡って、何よりもまず気が引けるのである。人とすれちがう時などには特に意地悪くわざわざガリガリと強い音を出す。すると人がびっくりして自分の顔を見るような気がするのである。
 この一センチメートル三角ぐらいの鉄片は、言わば「やましき良心」のごとく、また因果の「人面瘡《にんめんそう》」のごとく至るところにつきまとって私を脅かすのであった。
 だれが考えたものか知らないが、この鉄片はとにかく靴のかかとの磨滅《まめつ》を防ぐために取り付けたものには相違ない。しかし元来|靴《くつ》というものは、「靴自身のかかとのすり減らないためにはくもの」ではなくて、生身の足を保護するためにはくものである。もし足はどうなってもいい、靴さえ減らなければいいというのならば、いっその事全部鋼鉄製の靴をはけばいいわけである。
 はきごこち、踏みごこちの柔らかであるということは、結局|磨滅《まめつ》しやすいということと同じことになるのではないか。靴底と地面との衝撃の結果として靴底が磨滅されるおかげで、不愉快な振動が肉体に伝わることを防止するのであろう。
 畳がすり切れて困るから、床を鋼鉄張りにするというのも同じような話である。
 こんな不平をいだいて、二三日歩き回っているうちに、不思議なことには、この靴底の三角の鉄片の存在を主張する叫び声がだんだんに、自然に弱くなって来た。ゴリゴリ、ゲリゲリと鋸《のこぎり》の目立てをするような音はほとんど聞かれなくなった。そうして、この鉄片の軽く地面をたたくコツコツという音が、次第にそれほど不愉快でなく、それどころか、おしまいにはかえって一種の適度な爽快《そうかい》な刺激として、からだを引きしめ、歩調を整えさせる拍節の音のようにも感ぜられるようになって来た。
 思うに、従来はいていた靴のかかとがだいぶ減って低くなっていたので、それに長い間慣らされた足の運びが、今度の新しい靴の少しばかり高いかかとに適応するまでに少しばかり骨が折れたものと見える。
 そのうちに、古いほうの靴のゴム底ができて来て、試みにそれをはいて歩いてみると、なるほど踏みごこちは柔らかいが、今度はあまり柔らか過ぎて、べとべとした餅《もち》の上でも歩くような気がする。はなはだたよりない気持ちがするのであった。
 これに似た他の場合を思い出す。
 半年ほど下駄《げた》というものをはかないでいる。そうして久しぶりに下駄をはいて四五町も歩くと、足一面が妙にひきつれたようになって歩けなくなる。おしまいには腰のへんまでひきつってしまう。それが、足袋《たび》をはいてだと、それほどでもないが、素足のままだと特別にひどいようである。
 はき物でさえ、そうしてはき物の大きさや素材のこんな些細《ささい》な変化でさえ、新しいものに適応するということの難儀さかげんがこれほどまでに感じられるのである。過去の世界で育ち過去の思想で固まった年寄りの自分らが、新しい世界を歩き、新しい思想に慣れるまでの難儀さ迷惑さはどのくらい大きいものか、若い人には想像するさえむつかしいであろうと思われる。

     二 草市

 七月十三日の夕方哲学者のA君と二人で、京橋《きょうばし》ぎわのあるビルディングの屋上で、品川沖《しながわおき》から運ばれて来るさわやかな涼風の流れに※[#「口+僉」、第4水準2−4−39]※[#「口+禺」、第3水準1−15−9]《けんぐ》しながら眼下に見通される銀座通《ぎんざどお》りのは
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