の横の台の上に、ガラスの水槽《すいそう》が一つ置いてあって、その中にただ一匹の美しい洋紅色をした熱帯魚が泳いでいた。ベタ・カンボジャという魚らしい。それがただ一匹で泳いでいるのが、このいったいににぎやかな周囲の光景に対比していかにもさびしそうに見えた。自分がそれを指さして「さびしそうだねえ」と言ったら、友人の哲学者は「どうも少し病的のようだ」と答えた。魚が病的だというのか、そういうことをいうのが病的だか、それとも、こういう魚を飼うことがそうなのかわからなかった。魚はそのうちに器底に沈んで、あっちへ壁のほうを向いてしっぽをこっちへ向けたまま、じっとして動かなくなってしまった。つまらないから寝てしまったのかもしれない。

     六 音の世界

 ある日、街頭のマイクロフォンから流れ出すジャズの音を背後にして歩きながら、芭蕉翁《ばしょうおう》を研究しているK君が「じっとしていて聞く音楽と、動きながら聞く音楽とがある。じっとしていて聞くような音楽はもうなくなってしまいはしないか」という意味のことを言った。
 またある日、地下鉄からおりて歩きだすと同時に車も動きだして、ポーッと圧搾空気の汽笛を鳴らす、すると左の手に持っているふろしき包みの中の書物が共鳴して振動する。その振動が手の指先に響いてびりびりとしびれるように感じられた。
 研究室へ帰って新着の雑誌を読んで行くと「音の触感」に関する研究の報告がある。蓄音機のレコードの発する音響をすっかり殺してしまって、その上に耳を完全にふさいで、ただ指先の触感だけで楽音の振動をどれだけ判別できるかということを研究したものである。その結果によると、その振動が二つの音から成り立っている場合に、それが二つだということがちゃんと判別ができて、その上にそれがオクターヴか五度か短三度か長六度かということさえわかるものらしい。それでその著者は聾者《ろうしゃ》のための音楽が可能であろうということを論じ、また普通の健全な耳を持っている人でも、音楽を享楽するのに耳だけによるのではなくて実は触感も同時に重大な役目を勤めているのではないか、そうして、それを自覚しないでいるのではないかという意味のことを述べている。そう言われると、そんな気もする。少なくもジャズなどと触感とは縁が深そうである。
 夕方|藤棚《ふじだな》の下で子供と涼んでいた。「おとうさん、ウム――と言っていると、あの蚊がみんなおりて寄ってくるのね」という。
 自分の子供の時分、郷里ではそういう場合に「おらのおととのかむ――ん」という呪文《じゅもん》を唱えて頭上に揺曳《ようえい》する蚊柱《かばしら》を呼びおろしたものである。「おらのおとと」はなんのことかわからないが、この「む――ん」という声がたぶん蚊の羽根にでも共鳴して、それが、蚊にとってはすておき難い挑戦あるいは誘惑としての刺激を与えるせいであろうが、それにしても、その音源のどの方面にあるかということを一瞬間に識別するのはどういう官能に因るものか、考えてみると驚嘆すべき能力である。自分などは、往来でけたたましい自動車の警笛を聞いても存外それが右だか左だかということさえわからないことがあるのに、あの小さな蚊は即座に音源の所在を精確に探知し、そうして即座に方向舵《ほうこうだ》をあやつってねらいたがわずまっしぐらにそのほうへ飛来するのである。
 敵の飛行機の音を聞きつけてその方向を測知するという目的のために、文明国の陸軍では、途方もなく大きな、千手観音《せんじゅかんのん》の手のようなまたゴーゴンの頭のようなラッパをもった聴音器を作っている。しかし蚊のほうは簡単である。生まれた時からだれにも教わらずに役立つ最も鋭敏な優秀な器械を備えているのである。左右の羽根の刺激の不平均のために、無意識に自動的に羽根の動きの不平均が起こって、結局左右が平均するまでからだを回転させ、そうして刺激を増大するような方向に進行させるという自動調整器を持参しているのであろうか。
 銀座の楽器店の軒ばにつるした拡声器が「島の娘」のメロディーを放散していると、いつのまにか十人十五人の集団がその下に円陣を作るのも、あながち心理的ばかりではなくて、なにかわれわれのまだ知らない生理的な因子がはたらいているのかもしれない。
 朝九時ごろ出入りのさかな屋が裏木戸をあけて黙ってはいって来て、盤台を地面におろす、そのコトリという音が聞こえると、今まで中庭のベンチの上で死んだように長くなって寝そべっていた猫《ねこ》が、反射的に飛び起きて、まっしぐらに台所へ突進する。それももちろん結局は生理的であるとも言われようが、しかし、あらゆるいろいろの類似の「コトリ」という騒音の中で、特別な一つの種類であるところのさかな屋の盤台の音を瞬時に識別する能力はやはり驚くべき
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