りうるであろう。しかし異国的なゴムの葉のにおいばかりは、少なくも当時の自分の連想の世界を超越した不思議な魔界の悪臭であった。この悪臭によって自分はこの現世から突きはなされてただ一人未知の不安な世界に追いやられるような心細さを感ずるのであった。もちろんその当時そんな自覚などあろうはずはなかったが、しかし名状のできないこの臭気に堪えかねて、とうとう脳貧血を起こしたのであった。
もっとも幼時の自分は常に病弱で神経過敏で、たとえば群集に交じって芝居など見ていても、よく吐きけを催したくらいであるから、その時もやはり試験の刺激の圧迫ですでに脳貧血を起こしかけていたために、少しの異臭が病的に異常に強烈な反応を促進したかもしれない。
それはとにかく、今でもいくらかこれに似た木の葉のにおいをかぐと、必ずこの昔の郷里の小学校の教場のある日のヴィジョンがありありと現われる。そうしてこれに次いでいろいろさまざまな幼時の記憶が不可解な感応作用で呼び出されるのである。
八 鏡の中の俳優I氏
某百貨店の理髪部へはいって、立ち並ぶ鏡の前の回転椅子《かいてんいす》に収まった。鏡に写った自分のすぐ隣の椅子に、半白で痩躯《そうく》の老人が収まっている。よく見ると、歌舞伎《かぶき》俳優で有名なIR氏である。鏡の中のI氏は、実物の筆者のほうを時々じろりじろりとながめていた。舞台で見る若さとちがって、やはりもうかなり老人という感じがする。自分のほうでもひそかにこの人の有名な耳と鼻の大きさや角度を目測していた。
この人の芝居でいちばん自分の感心したのは船上の盛綱《もりつな》の物語の場である。しかしそれよりもこの人に感心したのは氏が先年H子夫人と同伴で洋行したときに、パリ在住の通信員によって某紙上に報ぜられたこの夫妻の行動に関する記事を読んだときである。パリのまん中でパリジャンを「異人」と呼び、アンバリードでナポレオンの墓を見て「ナンダやっぱりヤソじゃないか」と言ったとある。H夫人は、日本からわざわざ持参のホオズキを鳴らしながら、相手かまわずいっさい日本語で買い物をして歩いた。自分はこの記事を読んだときに実に愉快になってしまって、さっそく切抜帳の中にこれらの記事をはり込んだことであった。西洋人なら乞食《こじき》でも尊敬しようといったような日本人の多い中に、こういう純粋な日本人の江戸っ子が、一人でもまだ存在するということが当時の自分にはうれしかったのである。
I氏の下側から見た鼻の二等辺三角形の頂角を目測しながら自分がつい数日前に遭遇したある小事件を思い出すのであった。
ある途上で、一人の若い背の高い西洋人の前に、四五人の比較的に背の低いしかし若くて立派な日本人が立ち並んで立ち話をしていた。何を話しているかはわからなかったが、ただ一瞥《いちべつ》でその時に感ぜられたことは、その日本の紳士たちのその西洋人に対する態度には、あたかも昔の家来が主人に対するごとき、またある職業の女性が男性に対するごとき、何かしらそういったような、あるものがあるように感ぜられた。その西洋人がどれほどえらい人であったかは知らないが、単にえらさに対する尊敬とは少しちがったある物があるように感ぜられた。そうして、その時の自分にはそれがひどく腹立たしくも情け無くも思われまたはなはだしく憂鬱《ゆううつ》に感ぜられた。
ことによると、実は自分自身の中にも、そういうふうに外国人に追従《ついしょう》を売るようなさもしい情け無い弱点があるのを、平素は自分で無理にごまかし押しかくしている。それを今眼前に暴露されるような気がして、思わずむっとして、そうして憂鬱になったのかもしれない。
それはとにかく、自分はその同じ日の晩、ある映画の試写会に出席した。映写の始まる前に観客席を見回していたら、中央に某外国人の一団が繩張《なわば》りした特別席に陣取っていた。やがて、そこへ著名な日本の作曲家某氏夫妻がやって来てこの一団に仲間入りをした。まさに映写されんとする映画を作った監督はその某国の人であり、録音された音楽は全部この日本人の作曲である。見ているとこの外国人の一団はこの日本の作曲者を取り巻いてきわめて慇懃《いんぎん》な充分な敬意を表した態度で話しかけている。そうして、これに対するこの日本人は、たとえばまず弟子《でし》に対する教師ぐらいな、あるいは事によるともう少しいばった態度で、笑顔《えがお》一つ見せずにむしろ無愛想にあしらっている、というふうにともかくもその時の自分には見えたのである。それがなんとなくその時の自分には愉快であった。胸につかえていたものが一時に下がるような気がした。昼間見た光景がまさしく主客|顛倒《てんとう》したのである。しかしこの昼と夜との二つの光景を見る順序が逆であったら、心持ちは
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