ようであるが、それでもまだこの門衛の失職する心配は当分なさそうである。感官を無視する科学者も時にはにおいで物質を識別する。むつかしやの隠居は小松菜《こまつな》の中から俎板《まないた》のにおいをかぎ出してつけ物の皿《さら》を拒絶する。一びん百円の香水でもとにかく売れて行くのである。一方ではまた、嗅覚《きゅうかく》と性生活との関係を研究している学者もあるくらいである。
 嗅覚につながる記憶ほど不思議なものはないように思う。たとえば夏の夕に町を歩いていて、ある、ものの酸敗したような特殊なにおいをかぐと、自分はどういうものかきっと三つ四つのころに住んでいた名古屋《なごや》の町に関するいろいろな記憶をよび起こされる。たとえばまた、銀座《ぎんざ》松屋《まつや》の南入り口をはいるといつでも感じられるある不思議なにおいは、どういうものか先年アンナ・パヴロワの舞踊を見に行ったその一夕の帝劇《ていげき》の観客席の一隅《いちぐう》に自分の追想を誘うのである。
 郷里の家に「ゴムの木」と称する灌木《かんぼく》が一株あった。その青白い粉を吹いたような葉を取って指頭でもむと一種特別な強い臭気を放つのである。この木は郷里の家以外についぞどこでも見たという記憶がない。近ごろよく喫茶店《きっさてん》などの卓上を飾るあの闊葉《かつよう》のゴムの木とは別物である。しかし今でも時々このいわゆる「ゴムの木」の葉のにおいに似たにおいをかぐことがある。するときっとこの昔の郷里のゴムの木のにおいを思い出すと同時にある幼時の特別な出来事の記憶が忽然《こつぜん》とよみがえって来るのである。
 なんでも南国の夏の暑いある日の小学校の教場で「進級試験」が行なわれていた。おおぜいの生徒の中に交じって自分も一生懸命に答案をかいていた。ところが、どうしたわけか、その教場の中に例のいやなゴムの葉の強烈なにおいがいっぱいにみなぎっていて、なんとも言われない不快な心持ちが鼻から脳髄へ直接に突き抜けるような気がしていた。それだのにおおぜいの他の生徒も監督の先生もみんな平気な顔をしてそんなにおいなど夢にも気がつかないでいるように思われた。それがまた妙に心細くひどくたよりなく思われた。
 たとえば、下肥《しもご》えのにおいやコールタールのにおいには、われわれに親しい人間生活の幻影がつきまとっている。それに付帯した親しみもありなつかしみもあ
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