ものである。
 近代の物質的科学は人間の感官を追放することを第一義と心得て進行して来た。それはそれで結構である。しかしあらゆる現代科学の極致を尽くした器械でも、人間はおろか動物や昆虫《こんちゅう》の感官に備えられた機構に比べては、まるで話にもならない粗末千万なものであるからおかしいのである。これほど精巧な生来持ち合わせの感官を捨ててしまうのは、惜しいような気がする。
 たとえば耳の利用として次のようなことも考えられる。
 すべての音は蓄音機のレコードの上に曲線として現わされる。反対にすべての週期的ないし擬週期的曲線は音として現わすことができる。たとえば験潮儀に記録されたある港の潮汐《ちょうせき》昇降の曲線をレコード盤に刻んでおいてこれを蓄音機にかければ、たぶんかなりな美しい楽音として聞かれるであろう。そうしてその音の音色はその港々で少しずつちがって聞こえるであろう。それでこのようにして「潮汐の歌」を聞くことによって、各地の潮汐のタイプをある度まで分類することができるかもしれない。あるいはまたこの方法によって、調和分析などにはかからない潮汐異常や、地方的固有振動を発見することもできるかもしれない。
 またたとえばひと月じゅうの気圧の日々の変化の曲線を音に直して聞けば、月によりまたその年によっていろいろの声が聞かれるであろう。その声を聞いてその次の月の天候を予測するようなことも、全く不可能ではないかもしれない。
 同じように米相場や株式の高下の曲線を音に翻訳することもできなくはないはずである。
 たとえば浅間温泉《あさまおんせん》からながめた、日本アルプス連峰の横顔を「歌わせる」ことも可能である。人間の横顔の額からあごまでの曲線を連ねて「音」にして聞き分けることも可能である。
 近ごろのトーキー録音方法の中でも濃淡式でない曲線式のを使えばこれはきわめて容易である。まず試みに各社名宝のスターの「横顔の音」でも聞かせたらどうであろう。

     七 においの追憶

 鼻は口の上に建てられた門衛小屋のようなものである。命の親のだいじな消化器の中へ侵入しようとするものを一々戸口で点検し、そうして少しでもうさん臭いものは、即座にかぎつけて拒絶するのである。
 人間の文化が進むに従ってこの門衛の肝心な役目はどうかすると忘れられがちで、ただ小屋の建築の見てくれの美観だけが問題になる
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