な関係がかくされているのではないかと思われる。

       二

 いつか夏目先生生前のある事がらについて調べることがあって小宮《こみや》君と自分とでめいめいの古い日記を引っぱり出して比べたことがあった。そのとき気のついたのは自分の日記にはとかく食いものの記事が多いということであった。先生とどこで何を食ったというようなことがやたらに特筆大書されているのである。
 自分の子供たちのうちにも、古い小さい時分の出来事をその時に食った食物と連想して記憶しているという傾向の著しく見えるのがいる、どうも親爺《おやじ》の遺伝らしいということになっているのである。
 近ごろ、夕飯の食卓で子供らと昔話をしていたとき、かつて自分がN先生とI君と三人で大島《おおしま》三原山《みはらやま》の調査のために火口原にテント生活をしたときの話が出たが、それが明治何年ごろの事だったかつい忘れてしまってちょっと思い出せなかった。ところが、その三原山《みはらやま》行きの糧食としてN先生が青木堂《あおきどう》で買って持って行ったバン・フーテンのココア、それからプチ・ポアの罐詰《かんづめ》やコーンド・ビーフのことを思い出したので、やっとそれが明治四十二年すなわち自分の外国留学よりは以前のことであって帰朝後ではなかったことがわかった。なぜかというと、洋行前にはそんなハイカラな食物などは存在さえも知らなかったのを洋行帰りのN先生からはじめて教わりごちそうになり、それと同時にいろいろと西洋の話などをも聞かされた。そのためにこれらの食物と、まだ見ぬ西洋へのあこがれの夢とが不思議な縁故で結びついてしまったのであった。一日山上で労働して後に味わったそれらの食物のうまかったことは言うまでもない。
 そのテント生活中にN先生に安全|剃刀《かみそり》でひげを剃《そ》ってもらったのを覚えている。それは剃刀が切れ味があまりよくなくて少し痛かったせいもあるが、それまで一度も安全剃刀というものの体験をもたなかったためにそれがたいそう珍しく新しく感じられたせいもあるらしい。その剃刀が先生のゲッチンゲン大学時代に求めた将来ものだというのでいっそう感心したものらしい。
 とにかく、もし自分の留学後だったらバン・フーテンや安全剃刀にも別に驚かなかったはずであるから、それでこの三原山生活の年代の決定が確実にできたわけである。
 このときの
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