う認識不足はないであろうが。
 知人の家の結婚|披露《ひろう》の宴に出席する。宅《うち》へ帰って「お嫁さんはきれいなかたでしたか」と聞かれれば「きれいだったよ」と答える。およそ、きれいでない新婦などは有り得ないのである。しかし、どんな式服を着ていたかと聞かれると、たった今見て来たばかりの花嫁の心像は忽然《こつぜん》として灰色の幽霊のようにぼやけたものになってしまう。
「あなたの懐中時計の六時の所はどんな数字が書いてありますか」と聞いてみると、大概の人はちょっと小首をかしげて考え込んでしまう。実物を出して見ると、六時の所はちょうど秒針のダイアルになっているのである。
 こういう認識不足の場合はいいが、認識錯誤の場合にはいろいろの難儀な結果が生じる。盗難や詐欺にかかった被害者の女師匠などが、加害者でもなんでもない赤の他人の立派なお役人を、どうでもそうだと言い張る場合などがそれである。
 突発した事件の目撃者から、その直後に聞き取ったいわゆる証言でも大半は間違っている。これは実験心理学者の証明するとおりである。そのいわゆる実見談が、もう一人の仲介者を通じて伝えられる時は、もう肝心の事実はほと
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