内ようよう五枚出来たそうで、それも穴だらけに出来て中に破れて繕《つくろ》ったのもあるが、それが却《かえ》って一段の趣味を増しているようだと云うたら子規も同意した。巧みに古色が付けてあるからどうしても数百年前のものとしか見えぬ。中に蝸牛《かたつむり》を這わして「角《つの》ふりわけよ」の句が刻してあるのなどはずいぶん面白い。絵とちがって鋳物だから蝸牛が大変よく利いているとか云うて不折もよほど気に入った様子だった。羽織を質入れしてもぜひ拵えさせると云うていたそうだと。話し半《なか》ばへ老母が珈琲《コーヒー》を酌んで来る。子規には牛乳を持って来た。汽車がまた通って※[#「虫+召」、第4水準2−87−40]※[#「虫+僚のつくり」、第4水準2−87−82]《つくつくほうし》の声を打消していった。初対面からちと厚顔《あつかま》しいようではあったが自分は生来絵が好きで予《かね》てよい不折の絵が別けても好きであったから序《ついで》があったら何でもよいから一枚|呉《く》れまいかと頼んで下さいと云ったら快く引受けてくれたのは嬉しかった。子規も小さい時分から絵画は非常に好きだが自分は一向かけないのが残念でたまらぬと喞《かこ》っていた。夕日はますます傾いた。隣の屋敷で琴が聞える。音楽は好きかと聞くと勿論きらいではないが悲しいかな音楽の事は少しも知らぬ。どうか調べてみたいと思うけれどもこれからでは到底駄目であろう。尤《もっと》もこの頃人の話で大凡《おおよそ》こんなものかくらいは解ったようだが元来西洋の音楽などは遠くの昔バイオリンを聞いたばかりでピアノなんか一度も聞いた事はないからなおさら駄目だ。どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。黯然《あんぜん》として吾《われ》も黙した。また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底|見込《みこみ》がないそうだ。国が箱庭的であるからか音楽まで箱庭的である。一度音楽学校の音楽室で琴の弾奏を聞いたが遠くで琴が聞えるくらいの事で物にならぬ。やはり天井の低い狭い室でなければ引合わぬと見える。それに調子が単純で弾ずる人に熱情がないからなおさらいかん。自分は素人考《しろうとかんが》えで何でも楽器は指の先で弾くものだから女に適したものとばかり思うていたが中々そんな浅いものではない。日本人が西洋の楽器を取ってならす事はならすが音楽にならぬと云うのはつまり弾手《ひきて》の情が単調で狂すると云う事がないからで、西洋の名手とまで行かぬ人でも楽《がく》の大切な面白い所へくると一切夢中になってしまうそうだ。こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴《ろはん》の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか疊の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだようになった。烏はいつの間にか飛んで行っていた。また出ますと云うたら宿は何処《どこ》かと聞いたから一両日中に谷中《やなか》の禅寺へ籠る事を話して暇《いとま》を告げて門へ出た。隣の琴の音が急になって胸をかき乱さるるような気がする。不知不識《しらずしらず》其方へと路次を這入《はい》ると道はいよいよ狭くなって井戸が道をさえぎっている。その傍で若い女が米を磨《と》いでいる。流しの板のすべりそうなのを踏んで向側へ越すと柵があってその上は鉄道線路、その向うは山の裾である。其処を右へ曲るとよう/\広い街に出たから浅草の方へと足を運んだ。琴の音はやはりついて来る。道がまた狭くなってもとの前田邸の裏へ出た。ここから元来た道を交番所の前まであるいてここから曲らずに真直ぐに行くとまた踏切を越えねばならぬ。琴の音はもうついて来ぬ。森の中でつくつくほうしがゆるやかに鳴いて、日陰だから人が蝙蝠傘《こうもりがさ》を阿弥陀にさしてゆる/\あるく。山の上には人が沢山《たくさん》停車場から凌雲閣《りょううんかく》の方を眺めている。左側の柵の中で子供が四、五人石炭車に乗ったり押したりしている。機関車がすさまじい音をして小家の向うを出て来た。浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業《かるわざ》の太鼓|御賽銭《おさいせん》の音に汚《けが》すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡《きんぶちめがね》隣に坐った禿頭の行商と欠伸《あくび》の掛け合いで帰って来たら大通りの時計台が六時を打った。[#地から1字上げ](明治三十二年九月)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正
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