った身体を横たえて時々|咳《せき》が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火瞳底に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んである。机に倚《よ》る事さえ叶《かな》わぬのであろうか。右脇には句集など取散らして原稿紙に何か書きかけていた様子である。いちばん目に止るのは足の方の鴨居《かもい》に笠と簑とを吊して笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外が『ホトトギス』へ掲げた小園で奥行四間もあろうか萩の本《もと》を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。まいかいは花が落ちてうてながまだ残ったままである。白粉花《おしろいばな》ばかりは咲き残っていたが鶏頭《けいとう》は障子にかくれて丁度見えなかった。熊本の近況から漱石師の噂になって昔話も出た。師は学生の頃は至って寡言《かげん》な温順な人で学校なども至って欠席が少なかったが子規は俳句分類に取りかかってから欠席ばかりしていたそうだ。師と子規と親密になったのは知り合ってから四年もたって後であったが懇意になるとずいぶん子供らしく議論なんかして時々|喧嘩《けんか》などもする。そう云う風であるから自然|細君《さいくん》といさかう事もあるそうだ。それを予《あらかじ》め知っておらぬと細君も驚く事があるかも知れぬが根が気安過ぎるからの事である故驚く事はない。いったい誰れに対してもあたりの良い人の不平の漏らし所は家庭だなど云う。室《へや》の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方は富士の六合目で磊々《らいらい》たる赭土塊《あかつちくれ》を踏んで向うへ行く人物もある。油画は御茶の水の写生、あまり名画とは見えぬようである。不折ほど熱心な画家はない。もう今日の洋画家中唯一の浅井|忠《ちゅう》氏を除けばいずれも根性の卑劣な※[#「女+瑁のつくり」、第4水準2−5−68]嫉《ぼうしつ》の強い女のような奴ばかりで、浅井氏が今度洋行するとなると誰れもその後任を引受ける人がない。ないではないが浅井の洋行が厭《いや》であるから邪魔をしようとするのである。驚いたものだ。不折の如きも近来評判がよいので彼等の妬《ねた》みを買い既に今度仏国博覧会へ出品する積《つも》りの作も審査官の黒田等が仕様もあろうに零点をつけて不合格にしてしまったそうだ。こう云う風であるから真面目に熱心に斯道《しどう》の研究をしようと云う考えはなく少しく名が出れば肖像でも画いて黄白《こうはく》を貪《むさぼ》ろうと云うさもしい奴ばかりで、中にたまたま不折のような熱心家はあるが貧乏であるから思うように研究が出来ぬ。そこらの車夫でもモデルに雇うとなると一日五十銭も取る。少し若い女などになるとどうしても一円は取られる。それでなかなか時間もかかるから研究と一口に云うても容易な事ではない。景色画でもそうだ。先頃|上州《じょうしゅう》へ写生に行って二十日ほど雨のふる日も休まずに画いて帰って来ると浅井氏がもう一週間行って直して来いと云われたからまた行って来てようよう出来上がったと云っていたそうだ。それでもとにかく熱心がひどいからあまり器用なたちでもなくまだ未熟ではあるが成効するだろうよ。やはり『ホトトギス』の裏絵をかく為山《いざん》と云う男があるがこの男は不折とまるで反対な性で趣味も新奇な洋風のを好む。いったい手先は不折なんかとちがってよほど器用だがどうも不勉強であるから近来は少々不折に先を越されそうな。それがちと近来不平のようであるがそれかと云うてやはり不精だから仕方がない。あのくらいの天才を抱きながら終《つい》に不折の熱心に勝を譲るかも知れぬなど話しているうち上野からの汽車が隣の植込の向うをごん/\と通った。隣の庭の折戸の上に烏《からす》が三羽下りてガー/\となく。夕日が疊の半分ほど這入って来た。不折の一番得意で他に及ぶ者のないのは『日本』に連載するような意匠画でこれこそ他に類がない。配合の巧みな事材料の豊富なのには驚いてしまう。例えば犬百題など云う難題でも何処《どこ》かから材料を引っぱり出して来て苦もなく拵《こしら》える。いったい無学と云ってよい男であるからこれはきっと僕等がいろんな入智恵をするのだと思う人があるようだが中々そんな事ではない。僕等が夢にも知らぬような事が沢山あって一々説明を聞いてようやく合点《がてん》が行くくらいである。どうも奇態な男だ。先達《せんだっ》て『日本』新聞に掲げた古瓦の画などは最も得意でまた実際|真似《まね》は出来ぬ。あの瓦の形を近頃|秀真《ほずま》と云う美術学校の人が鋳物《いもの》にして茶托《ちゃたく》にこしらえた。そいつが出来損なったのを僕が貰うてあるから見せようとて見せてくれた。十五枚の
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング