たのであった。
宿の本館に基督《キリスト》教信者の団体が百人ほど泊っていた。朝夕に讃美歌の合唱が聞こえて、それがこうした山間の静寂な天地で聞くと一層美しく清らかなものに聞こえた。みんな若い人達で婦人も若干交じっていた。昔自分達が若かった頃のクリスチャンのように妙に聖者らしい気取りが見えなくて感じのいい人達のようである。
この団体がここを引上げるという前夜のお別れの集りで色々の余興の催しがあったらしい。大広間からは時々賑やかな朗らかな笑声が聞こえていた。数分間ごとに爆笑と拍手の嵐が起こる。その笑声が大抵三声ずつ約二、三秒の週期で繰返されて、それでぱったり静まるのである。こうした場合に人間の笑うのにはただ一と声笑っただけではどうにも収まらないものらしく、それかと云って十声とつづけて笑うことは出来ないものらしい。
毎日カッコウやホトトギスがよく啼く。これらの鳥の啼くのでも大概平均三声くらい啼いてから少時《しばらく》休むという場合が多いようである。偶然と云えば偶然かもしれないが、しかし何か生理的に必然な理由があるのかもしれない。
七月二十一日にいったん帰京した。昆虫の世界は覗く間がなかった。八月にまた行ったとき、もう少し顕微鏡下の生命の驚異に親しみたいと思っている。[#地から1字上げ](昭和十年九月『家庭』)
底本:「寺田寅彦全集 第四巻」岩波書店
1997(平成9)年3月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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