不快であるのか、これも不思議である。鳥にはだれも初めから遠慮とか作法とかを期待しない、というせいもあるであろう。また、鳥の生活に全然没交渉なわれわれは、鳥の声からしてわれわれの生活の中に無作法に侵入して来るような何物の連想をもしいられないせいもあるであろう。蝉の声には慣らされるが、ラジオの※[#「食+尭」、第4水準2−92−57]舌にはなかなか教育されるのに骨が折れる。
夕方歩いていたら、湯川の沢の蘆原の中で水鶏が鳴いていた。朝でなくても鳴くのである。ずっと離れた山すそにも、もう一羽別のが鳴いていた。沢のがだんだん近づいて行って、とうとう山すそのほうへ移って行くころには相手はもう鳴かなくなった。やがて水鶏の声はぱったり途絶えてしまって、十三夜ごろの月が雨を帯びた薄雲のすきまから、眠そうにこの静かな谷を照らしていた。水鶏の鳴くのはやはり伴侶を呼ぶのであろう。
このへんには猫がいない、と子供らが言う。なるほど、星野でも千が滝でも沓掛《くつかけ》でも軽井沢でもまだ一匹も猫の姿を見ない。それが東京の宅《うち》の付近だと、一町も歩くうちにきっと一匹ぐらいは見つかるような気がする。日々に訪れて
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