この温泉宿の前の広場で盆踊りがあるという。
盆踊りといえば生来ただ一度、それも明治三十四五年ごろ、土佐《とさ》のあるさびしい浜べの村で一晩泊まった偶然の機会に思いがけない見物をしただけで、それ以後にはついぞ二度とは見たことがなかった。そのころにはこういうものは、「西洋人に見られると恥ずかしい野蛮の遺習」だというふうに考えられて、公然とはできないことになっていたように記憶する。それでも、都会離れたこの浦里などでは、暗いさびしい貴船神社《きふねじんじゃ》の森影で、この何百年前の祖先から土の底まで根をおろした年中行事がひそやかに行なわれていた。なんの罪もない日本民族の魂が警察の目を避けて過去の亡霊のように踊っていたのである。それがこのごろでは、国民思想|涵養《かんよう》の一端というのであろうか、警察の許可を得て、いつのまにか復旧されて来たように見えるのである。
H温泉旅館の前庭の丸い芝生《しばふ》の植え込みをめぐって電燈入りの地口行燈《じぐちあんどん》がともり、それを取り巻いて踊りの輪がめぐるのである。まだ宵《よい》のうちは帳場の蓄音機が人寄せの佐渡《さど》おけさを繰り返していると、ぽつ
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