もっともこんなことは、植物学者、あるいは学者とまでは行かずとも、多少植物通の人にとっては、あまりにも平凡な周知の事実であるかもしれないが、始めて知ったまるの素人《しろうと》には実に無限の驚異と、従って起こる無数の疑問を提供するものである。
 こうして秋草の世界をちょっとのぞくだけでも、このわれわれの身辺の世界は、退屈するにはあまりに多くの驚異すべく歓喜すべき生命の現象を蔵しているようである。
 今でも浅間の火口へ身を投げる人は絶えないそうである。そういう人たちが、もし途上の一輪の草花を採って子細にその花冠の中に隠された生命の驚異を玩味《がんみ》するだけの心の余裕があったら、おそらく彼らはその場から踵《くびす》を返して再び人の世に帰って来るのではないかという気もするのである。

     二 盆踊りとあひる

 二度目に沓掛《くつかけ》へ来たのが八月十三日である。ひと月前の七月十三日の夜には哲学者のA君と偶然に銀座の草市を歩いて植物標本としての蒲《がま》の穂や紅花殻《べにばながら》を買ったりしたが、信州《しんしゅう》では八月の今がひと月おくれの盂蘭盆《うらぼん》で、今夜から十七日まで毎晩この温泉宿の前の広場で盆踊りがあるという。
 盆踊りといえば生来ただ一度、それも明治三十四五年ごろ、土佐《とさ》のあるさびしい浜べの村で一晩泊まった偶然の機会に思いがけない見物をしただけで、それ以後にはついぞ二度とは見たことがなかった。そのころにはこういうものは、「西洋人に見られると恥ずかしい野蛮の遺習」だというふうに考えられて、公然とはできないことになっていたように記憶する。それでも、都会離れたこの浦里などでは、暗いさびしい貴船神社《きふねじんじゃ》の森影で、この何百年前の祖先から土の底まで根をおろした年中行事がひそやかに行なわれていた。なんの罪もない日本民族の魂が警察の目を避けて過去の亡霊のように踊っていたのである。それがこのごろでは、国民思想|涵養《かんよう》の一端というのであろうか、警察の許可を得て、いつのまにか復旧されて来たように見えるのである。
 H温泉旅館の前庭の丸い芝生《しばふ》の植え込みをめぐって電燈入りの地口行燈《じぐちあんどん》がともり、それを取り巻いて踊りの輪がめぐるのである。まだ宵《よい》のうちは帳場の蓄音機が人寄せの佐渡《さど》おけさを繰り返していると、ぽつぽつ付近の丘の上から別荘の人たちが見物に出かけて来る。はじめは小さな女の子など、それに帳場の若い人たちが加わって踊っているうちに、だんだんにおとなも加わって、いつとなしに踊りの輪が丸くつながる。そうしているうちに潮のさして来るように次第に興が乗り、次第次第に気合いがかかって来るのが、見ていてもおもしろいものである。
 おかっぱに洋装の女の子もあれば、ズボンにワイシャツ、それに下駄《げた》ばきの帳場の若い男もある。それが浴衣《ゆかた》がけの頬《ほお》かぶりの浴客や、宿の女中たちの間に交じって踊っている不思議な光景は、自分たちのもっている昔からの盆踊りというものの概念にかなりな修正を加えさせる。それに蓄音機のとる音頭の伴奏の中には、どうも西洋楽器らしいものの音色が交じっているらしい。これも盆踊りの進化の一つの相である。そうして日本現代の一つの象徴でもある。
 蓄音機がぱたりとやむと、踊り子たちの手持ちぶさたを紛らすためにだれかが歌いだす。それに合わせて皆が踊り始めると途中で突然また蓄音機の音が飛び込んで来る。所かまわず歌の途中からやにわに飛び込んで来るので踊り手はちょっと狼狽《ろうばい》してまた初手からやり直しになる。すると、拡声器の調節が悪いためか、歌がちょうど咽喉《のど》にでも引っかかるようにひっかかってぷつりぷつりと中断する。みんなが笑いだす。そういうことを何度も繰り返していた。
 十五日の晩は雨でお流れになるかと思ったらみんな本館の大広間へ上がって夜ふけるまで踊り続けていた。蓄音器の代わりに宿の女中の一人が歌っているということであった。人間のほうが器械の声よりもどんなに美しいか到底比較にならないのであるが、しかしいわゆる現代人にはこの雑音だらけの拡声器の音でないと現代の気分が出ないというのであろう。夜のふけるに従って歌の表情が次第に生き生きした色彩を帯びて来た。手拍子の音が気持ちよくそろって来るのは妙なものである。
 十七日は最終の晩だというので、宵《よい》のうちは宿の池のほとりで仕掛け花火があったりした。別荘の令嬢たちも踊り出て中には振袖姿《ふりそですがた》の雛様《ひなさま》のようなのもあった。見物人もおおぜい集まって来た。中には遠くから自動車で見に来る人もあるらしかった。
 年の行かない令嬢が振袖に織物の帯を胸高にしめて踊るのがなんと言ってもこういう民族的の
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